秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

キャスティング

昨日は、久々50人ほどのオーディション。少ない方だ。以前、東映東京撮影所が出演の確定した有名俳優5名をのぞき、その他の役に150人も集めて、朝から夜の10時近くまでかかったこともあるw
 
手伝ってくれた売り出し中の若手俳優で、秀嶋組のアシスタントもやってくれているOと終了後、乃木坂長寿庵で昼飯抜きの腹に熱燗をいれたら、すっかりできあがってしまった。

これから世に出ていく、あるいは、そこそこに映像の世界や舞台の場で仕事をこなしていける…という人は、初見のセリフ、ひとつ聞いただけでわかる。音楽の演奏者も同じだ。
 
実は、何十人とオーディションをやりながら、その作品でほしい役者をひとりみつける、あるいは、はっとする俳優が現れると、大方、オーディションを続けても、それを越える人は現れない。
 
だが、いろいろと準備や気構えをつくって、わざわざ会場まで来た、その他の俳優を袖にするわけにも、無碍に扱うわけにもいかない。ほとんどの場合、そうじゃなくてさ…といいたいところを抑えて、きちんと向い合い、芝居を最後まで観る。つまり、観る側にはほぼ耐える修行なのだ。

しかし同時に、今回の作品でははまらないが、別の作品なら可能性がある、あるいは、このキャラクターならこういう作品や芝居をやらせてみたい…という俳優と出会うこともある。
耐える修行にも意味があるときが、まれにある。だから、おろそかにはしないのだ。
 
配役という言葉のとおり、映画も舞台も、だれかひとりが上手ければいいのではない。あるいは、だれか有名な俳優ひとりがいればそれで足りるのもでない。
 
俳優と俳優、俳優たちが集合して醸し出す空気が大事。それぞれの俳優に個性と相性があり、また、相性は悪くても互いを触発させる何かが潜んでいる場合もある。その呼吸の組み合わせが一番大事なのだ。
 
キャスティングというものが日本で重要視されるようになったのは、まだ最近のことだ。海外ではずっと以前からキャスティングのための養成機関や会社があった。
 
ただ単純に有名俳優を並べ、その出演を確保するという仕事ではなく、作品をより膨らませ、生かすために、配役を創意工夫する。場合によっては、それほど有名ではないが、組み合わせの妙から、あえてそうした俳優をキャスティングする…ということもある。
 
いろいろな俳優の組み合わせが大きな化学反応を起し、台本をより大きくする場合があるからだ。
 
これは、しかし、映画やドラマ、芝居に限ったことではない。組織、集団というものは、常に人の集合のあり方、その姿、精神性で変わる。だから、いろいろな人間がいていい。だが、立ちすぎた個性だけで、他者との関係性を生きられない者は、結局、触媒にも、刺激にもなっていかない。

映画やドラマ、芝居をつくるのは、監督でも、演出家でも、ましてや作家でもないのだ。俳優陣とスタッフ陣の人と人とのかかわり方がつくっていくのだ。監督や演出をみていても、実は何も創造的なものは生まれない。
 
監督や演出にできるのは、それを調整し、場合によっては不協和音をあえてつくり出し、お行儀のよい世界から、あやういけれど、おもしろい世界をつくる場と空気をつくることくらいだ。
 
俳優やスタッフが自ら自覚的にその世界を生きよう、つくろうとしなければ、いい作品など生れはしない。