秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

年の瀬の自由

どういう世界でも、その折々の人の集まり方、物事を進める時期、時節によって、独特の活気や熱気があるときと、停滞感が漂う時期とがある。

人と人の出会いとそれが生み出す、化学反応っていうのは、いろいろに姿を変える。新人が入れば、それだけで明るくなるということもあるし、だれかひとり、すごく熱意ややる気にある人間が登場すると、ぐんと集団の場の空気や勢いが変わるということもある。
 
同時に、同じ顔、同じメンバー、同じような世代や立場ばかりでいると、どこか物のとらえ方や考え方、取り組む姿勢が慢性化し、精彩をかくということが起きる。
 
よく、子は親を選べないというし、部下は上司を選べないともいう。確かに。人はなにがしか、意図して他者との関係を結ぶには、決定的に限界がある。
 
家族や組織という形ではなくとも、行きつけの飲み屋で、ある時期、顔馴染みとなる常連が一定なのが、時間が経つにつれ、三々五々、ひとりひとりといなくなり、また、次の新しい常連が空気をつくる…ということもある。
 
つまり、意図してそうしようと思っても、人の出会いと関係というのは、どこまでも偶発性にまかせなくてはいけない。問題は、その偶発性を生かせるかどうかにかかっている。
 
親子だって、だれかが家を飛び出し逃げ出すことができるし、会社だって、やめてしまうこともできる。生活の問題をちょっと棚上げにすれば、そこにいる必然は実は、厳密にはない。
 
それでも、そこにいようとする。あるいは、そこから出て、なにか別の新しい偶発性に身を任せるかどうかは、だから、限りなく、その人の自由でなくてはいけない。その人自身の自発的動機付けがなくてはいけない。
だが、長引く景気低迷ってやつは、この自由を人から奪う。新しい人との出会いや新しい場への挑戦をできなくさせる。また、こういう厳しい時だからと、家や組織という殻の中で耐えなければ…と思わせる。つまり、動機づけを見失う。
 
それが長引くほど、ミシミシそこにヒビも入れば、密着ゆえのエロス的対立や依存のようなものが生まれてしまう。べつに新しいものへ進もうとしないで、そこにいようとしても、偶発性を楽しむという自由が奪われているから、風通しが悪く、そうなってしまう。
 
昨今の家庭内の事件や疑似家族的癒着によって起きる事件というのは、そうした時代の表象でもある。警察という閉じた組織、学校という閉じた組織でもゆるゆるとした不祥事が起きてしまうのも、かくあらねばならないという規律やルールばかりが先にあり、人が置かれている時代的な事情とそれが生む精神性を置いてきぼりにしているからだ。
 
年の瀬もせまり、政権も代わり、来年はこの状況からの脱却の願いが多くの人たちにあるだろう。
 
それには、まず、かくあるべき、これが正しいといった決めつけから自由になることだ。倫理や道徳ばかりに支配されて、ルールや規律、常識をいうばかりでなく、いろいろなルートと方法があっていいと、視点と視座を高く、広く置くことだ。

人との出会いは自由にいろいろに変わる。それは、同時にいまの自分もいろいろに自由に変われるということだ。