秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

老いの時間

若いとき、人は自分が老いたときの姿を想像できない。そして、人は実際に老いても、老いの自覚を強く持てるのは70歳も過ぎた頃だ。つまり、いままでできていたことのいくつかがまったくできないということを体で知るようになってからだ。

だから、人は老いを、若い人もある程度の年齢にいった人も、受け入れられない。それはまた、自分だけではなく、人の老いも世界の老いの現実感もなかなか持てないといことでもある。
 
子どもたちが、老いた親の現実を受けいれられず、自分たち子どもが幼なく、若かった頃の元気で、たくましく、しっかりし、あるいは、自信に満ちていたときのままの親の姿を求め、求めるあまり、親に昔のようにできないことをきつく当たるということが起きる。
 
また、老いた親は、若く元気だったころの自分に執着し、老いを受けいれられず、年相応の老いの世界を同じく老いた者たちと共にすることを拒むということが起きる。まだ、そこまではいっていない…。その思いが老いの輪に入ることも、行政や他人の世話になることを拒絶させる。
 
セルフネグレクトという言葉を聞いたことのある人もいるだろう。
 
高齢者の孤立死は、地域の共同体が失われ、住民の関心が薄れて起きるという一面もあるが、決してそれだけではない。もともと社会参加が苦手、社会参加に対して抵抗のある高齢者が自ら、社会との接点を拒否して起きる。つまり、自分自身が社会から撤退し、ネグレクトするのだ。

この国は、戦後、若い世代が中心になり、「せいの!」で高度成長を果たした。その中心は20代から40代。まだ、若く、元気で、自分たちも、そして、自分たちのつくった世界も決して老いを迎えるとは思ってもいなかった。
 
だから、自分や世界が老いたときのための金の準備はある程度しても、心の準備をしてこなかった。そのための制度という手配もしてこなかった。豊かさと利便性だけを求めるのは、若さのなせる技だからだ。それがいつか終り、豊かさと利便性だけでは人はしあわせになれない…ということを想像することも、知ろうともしなかった。
 
国も社会も、隆盛に向う過程と隆盛の頂点から衰退へ向う移行を経験する。かしこい国、社会は、その事実を受けいれ、老いと共にある、ゆるやかな時間の世界をつくる。急速な発展や利便性はえられなくとも、ゆるやかな時間があるからこそ、育てることのできる教育があり、守ることのできる子育ての時間や老いのための準備の時間がある。

今般の選挙。そこに着目して、政党や政治家の声を聴いて確かめてみるのも、ひとつの選択のあり方かもしれない。