秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)

中村勘三郎が早逝した。
 
ずいぶん前から余命はないという情報がなぜかオレにも入っていて、寝耳の水で驚くということはなかったが、その頃から、歳もひとつしか違わないこともあって、無念な死になるだろうなと思っていた。

中村家というのは、もともと江戸歌舞伎の小屋主、いまでいえば、劇場主・興行主として出発した家、中村座
だ。江戸歌舞伎の隆盛は、猿楽町、いまの浅草界隈、吉原と隣接する場所にあった、中村座市村座森田座河原崎座)、いわゆる上方(大阪・京都)歌舞伎に対して、この江戸三座が担っていた。
 
そもそも歌舞伎は、その発祥から、公序良俗を乱すものとされ、権力の厳しい管理下におかれていた。流民、河原者と差別される人々が土地を持てず、まともな仕事につけない中で生まれてきた芸で、そのため、被差別部落民、いわゆる同和地区の場所に、「悪場所」として統合され、それ以外の場所で興行はできなかった。それが京都でいえば四条河原町。東京では、浅草、かつての猿楽町界隈だった。
 
実際、歌舞伎は、阿国歌舞伎に始まる歴史からして、いわば流れ巫女=流民遊女の手古舞(てこまい)、ストリップショーとして生まれている。

 
地方で食い詰め、遊女となった女たちが地域の踊りを露出した姿で踊り、京・大阪・江戸といった金のある都市へ流入した。踊りで木戸銭をもらい、男たちをそそり、品定めした男たちから指名を受け、売春で食べる。
 
それが、次第に踊り、舞の芸を磨いていった。いわゆる遊女歌舞伎といわれるものだ。それが芸者の集団舞、京踊りのようなものに変わっていく。わかりやすいうと、おニャン子、モー娘、いまいえばAKBのようなものと思っていいい。
 
余談だが、女子の集団演技の舞と唄というのは、これからもわかるように、決して新しいスタイルではない。そこには、必ず性的な観賞が付きまとう。オレが小中学生のこうした集団に批判的なのは、この歴史を知っているからだ。
 
これを規制する中で、女子の歌舞伎が禁止され、規制をすり抜けるために、若い男子による若衆歌舞伎が登場する。いまでいえば、ジャニーズ系、エグザイル系の小学生から中高生くらいの男子が若衆姿で踊る。ここでも今度は女たちが男を買う。
 
そればかりか、もともとこの国にあった男色文化に華を咲かせ、男たちが男を買うという売春が常習化する。

これを幕府から禁じられて、また、すり抜けるように生まれたのが、現在の野郎歌舞伎といわれる、成人男子を中心とした歌舞伎で、ここから女形の芸が登場してくる。

歌舞伎というのは、つまり、常に権力の法的規制と向き合い、ときにすり抜けながら生き延び、現在の隆盛を迎えている。
勘三郎平成中村座をその出自である、浅草でやり、これを世界に…と考えたのには、実は、こうした被差別者としての艱難辛苦の先祖代々の歴史があり、知っていたからだ。

能楽が先に登場しているが、能楽武家社会に受け入れられることで、歌舞伎とは別格の道を歩んだ。もちろん、世阿弥が藤若と呼ばれた少年期、足利義満の男色の相手をしながら、その地位を勝ち取ったように、能楽も男色という性と無縁ではない。
 
しかし、庶民芸能として河原に生きた歌舞伎より、武家のたしなみとされたことで、ずっと格上だった。河原生活から抜け出て、屋敷生活を送れる芸を生み出したのだ。
 
だから、歌舞伎役者にとって、能楽は羨望だった。歌舞伎の作品には「娘道成寺」など能楽を模倣した作品がいくつもあるのはこのせいだ。

勘三郎の芝居で感動した作品がある。まだ、勘九郎の頃だが、オレが東宝の戯曲科にいたときだ。夏のお決まり興行の名作「夏祭浪花鑑」をひとりで歌舞伎座に見に行った。歌舞伎の殺しの場の壮絶さをもう一度しっかり観て勉強しよう。演劇評論家の藤木先生や東宝の企画室長だった渡辺保先生の話から、ふとそんな気になった。

七段目「長町裏」で、主人公団七が、浮浪児だった自分を引き取って育ててくれた義父、三河屋義平次を殺害する場面。守銭奴の義平次とたまたまの口論から殺す次第になるが、ある瞬間から壮絶な殺しに転じる。
 
そこに夏祭りのだんじりが重なり、なんとも言えない演出効果を生んでいる。殺しの後、返り血を洗い流すために、本水(実際の水)を使い、水を浴びる演出もすばらしい。悪しき魂に身を投げ出した人間の奈落へ落ちる覚悟のようなものが見えるからだ。勘三郎は、それを実に見事に演じていた。

女殺油地獄」もそうだが、歌舞伎の殺しの場が、これでもかというほど、壮絶なのは、歌舞伎役者のDNAにしみ込んだ被差別者の憎悪があるからだ…と語る人がいた。平身低頭、客や権力に頭をたれながら、積み重なった、忸怩たる思いは、こうした暴力に変わる…。そのドグマに、日常が浸食される現実を歌舞伎役者、中村勘三郎は体でわかっていた。
 
 
イメージ 1