秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

くせは治ってない

今週は、短編の自主作品の脚本制作で時間をとられている。10日までに整えて、制作協力会社を含め、各所に知らせなくてはいけない。約2ヵ月遅れの作業。

小説や戯曲、脚本には、人が登場する。それは、いうまでもなく、すべからく人間を描くということを基本としているからだ。

法や正義という物差しでも、道徳や倫理という物差しでも、測りきれないものが人の心には宿っている。いい人、よい人、よくない人、わるい人。邪な人、狡猾な人、臆病な人、虚勢を張る人、自己保身の塊の人、強圧的な人、穏やかな人。といった類型だけではとらえられないものが人の中にある。
 
また、ある人との関係では、そうある人が、また、別の人と対面しているときは、違う人としてそこにある、ということもある。
 
人というのは、それほどに多面的で、多様で、事情、状況、環境、対人関係、社会的関係、時間によって、豹変する。
 
そうした人間を描こうとすると、どうしても書いている側の人間の内面にもぶつかってくる。
 
自分の主観や私的思いだけで人を描く、物を書くというのでは、それができない。多様な人の人称を描くことができない。それは同時に、人と人をつつむ、蓋然性も描けないということだ。

ストーリーが進まなくて苦しんだり、悩んだりする人がいるというが、それは違うと思う。描こうとしている人の造形ができていなから、進まないだけだ。人の造形が生まれれば、そこに登場する人は、勝手に動き出す。人が動けば、物語は、自然と進んでいく。

そして、人が動くことで、自分の中にあるその造形や造形をつくっている、その人の事情が見る人や読む人にとって、説得のあるものかどうかを問うてくる。つまりは、おまえは、どうなのだと…書いている本人のいろいろを問うてくる。もっといえば、人生を、生き方を問うてくるといってもいいだろう。

人の中にある矛盾や相克が描かれていない作品はおもしろくもないし、説得力もない。内省のない作家の作品やドラマがおもしろくないのは、そのためだ。

オレのように、社会的な題材やテーマを扱う人間には、作品をつくった後の責任がずっとついてくる。作品ができて終りではなく、そのあとに生まれる物議や議論、批判と向き合う気迫と覚悟がなくては、作品にならない。

だから、一層、書いているときは、自分を問われる。問われることで、また、思考が深まる。

それをやり始めると、あれこれ日常的な業務をふと忘れてしまうw いけない。請求書を出し忘れるところだった…。
 
子どもの頃から、青春期まで、よく友人だちともり上がっているときに、まったく別のことを考えて、よくいわれた。「おい。秀嶋。おまえ、人の話ききようや?」。それでふと我に返る。そのくせはいまも治ってない。