秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

あなたを忘れない

おふくろと義父が亡くなってから6年…。11月中旬と12月の年末に立て続けに逝った。寒さが厳しくなってくるこの時期になると、いつも早いものだなと思う。
 
人というのは亡くなったり、失ってから、いろいろに記憶によみがえるものだ。親しい人であれば、亡くなってから自分の中に一部として、その人が存在するということもある。
 
オレもおふくろが生きている間は、毎日のようにおふくろのことを思ったり、考えたりすることはなかった。それが、おふくろが亡くなった瞬間、ことあるごとにおふくろの言葉ややっていたことを振り返るようになった。
 
義父の偉大さや素晴らしさは生きてるとき、義父と話すたびに感じたし、その深い見識や知識には驚かされたものだが、亡くなって、改めて、ああ…義父はこういうことがいいたかったのか…と深く実感できることも少なくない。

人は死して、いなくなるのではない。死によって、人々にその生きた記憶と証を示し続けていくのだ。
 
ガルタゴの丘で、キリストが敢えて死を甘んじ、受けいれたおかげで、世界は紀元前と紀元後という世紀を持ち、キリスト教及びキリスト教文化というものをつくり上げることができた。

いわば、人は死ぬことによって、永遠につながる伝言を遺せるのかもしれない。その死がどのようなものでもあっても、人は平等にその機会を宿命的に与えられている。

それはひるがえって考えれば、人の生はどのようなものであっても、死というものがあるがゆえに、普遍の伝言のための遺書のようなものなのだ。
 
不慮の事故や災害、理不尽にいのちを奪われる紛争や戦争…それによっていのちを奪われた人々も、語るという行為ではなく、何事かを書き残すという物語はを遺さなくとも、きっと普遍の伝言を人々に、だれかに遺している。
 
だから、死は終わりでなく、新たな始まりになる。

だからこそ、もっとも悲しむべきは、その人の死そのものをだれにも知られないことなのだ。あの人がいなくなった…と気づかれないことなのだ。

そうしないために、そうした社会でなくするために必要なのは、出会う人すべてを、それがどのような人であろうと、「あたなを忘れない」という思いであり、誓いだ。

自分がここにいたというバトンをだれかが確かに受け取ってくれている。その思いを互いがつないでいくことだ。
 
そのために、オレたちは歴史を知り、学び、それをいまに生かし、得たものの過ちをただし、受け継ぐべきものを守り、明日を拓かなくてはいけない。時間は戻らない。
時代も戻らない。過去にバトンをつなぐのではなく、未来へバトンをつながなくてはいけない。

今回の選挙、だれが未来へ確かにバトンをつないでくれるのか、「あたなを忘れない」という深い、いのちへの思いを抱き、明日への誓いを持てるのはだれなのか…
それを見極める選挙ともいえるだろう。