秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

心より心に伝ふる花

人や集団というものは、自分たちの経験の深度によってしか、初見の人や団体を判断できない。
 
情報の曖昧性や不確実性を情報社会が教訓として刷り込んだ結果、情報そのものに比重をおけなくなっているからだ。それがいかに深度の高い、信頼性を裏付けとしてもっていたとしても、他者性の不確かさという時代、なかなか情報だけに頼ることができない。
 
オレなどは、すべて直感だと考えているから、いかに初見の相手や団体が著名なものであろうと、背後に権威をまとっていようが、それはほとんど相手にしない。対面してえた情報がすべて。
 
社会的な常識とされている権威や著名性といったものをほぼ信用していないからだ。
 
なぜか。簡単なことだ。いかに権威や著名性といったものがあったとしても、そこで対面した人たちの力を見れば、あるいは、その人たちの持つイマジネーション力やビジネス力を見れば、大方、どの程度の集団性と組織性、そして、実行力や実現力があるかは値踏みできる。
 
逆に、権威や著名性といったものをまとっていなくても、同じ目線と直感で人や集団をみると、すばらしく優秀であったりする場合も少なくない。
 
いつも人にいうことだが、だからこそ、思い込や決め付をしていはいけないと思う。

情報を信じられないという時代だからこそ、それを別の属性に依拠していては、ますますその実態や本質がみえなくなる…とオレは思っている。

肩書や組織のネームバリュー、学歴や職歴といったものを判断基準においていると、つい思い込みが先にいく。しかし、それは大方、大きな落とし穴があるものだ。

自分の眼にみえたもので判断する。仮に、そこで何か不具合があれば、そのとき、そこで対応すればいい。最初から疑心暗鬼では、人や集団同士の絆というものは結びえるものではない。

だが、他者に対して、それを要求することはしない。それが世間というものだからだ。
属性にこだわる奴はどうしたって属性にこだわる。だったら、こだわらせておけばいい。こちらの姿勢や志向性、論理性や妥当性といった実績を積み上げる中でしか、そうした連中は納得はしない。

悲しいことだが、実績を示し、積み上げる中でしか、人は、属性から自由になって、人や集団を判断できないものだ。
 
オレの好きな世阿弥の言葉に「心より心に伝ふる花」という演技論の言葉がある。相手(観客)をせめても仕方ない。客の心に通じる演技の妙をみせてこそ、客は初めて、その演者の舞いに見えない現実を感じ取ることができるのだ。