秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

恋と使命感

人は整合性や一貫性、理由や根拠を求めたがる。何かを知る、確かめる…というとき、「なぜ?」「どうして?」を基本に置くからだ。

そして、その「なぜ?「どうして?」に妥当性のある答えがえられないと、人は不信や疑惑、疑念を抱き、知ること、確かめることを躊躇する。あるいは、それができなものを否定し、削除する。
 
しかし、よく考えてみてほしい。自分自身の行動や決定、考え方や生き方、ふるまいといったものは、すべからくその「なぜ?」「どうして?」で明確に答えがでるような理由が根拠によって、あるいは、そうした質問に妥当性を与えるような整合性や一貫性によって形づくられているものだろうか。

実は、人は知ってる。自分自身もその周辺においても、「なぜ?」「どうして?」に明確に答えられる理由や根拠のようなものはなく、かりにそれが誤解や錯誤、錯覚、あるいは疑わしきものであったとしても、かすかな手がかりによってえられたものを仮想として信じ、生きようとしているに過ぎないとうことを。つまり、自分たちを含む、多くのものが、不確かさの上にしか成り立っていないという現実を知っているのだ。
 
だからこそ、不安を逃れるだめに、かすかな手がかり、つまりは、社会的な帰属や立場、出自や経歴といった属性に頼り、それを信じようとする。結果的に、何事か人を判断したり、行動を決定するとき、その多くを属性にゆだねる…ということになる。

人が知らず知らずに他人を追い詰めるとき、多くがこの「なぜ?」「どうして?」の呪縛から逃れていない。人は、明確な解答のある中で、過ちも犯さなければ、簡潔で論理立られ中で、失敗や挫折をするのではない。あるいは、勇気ある行動や社会や人のために人智を尽くす…ということをしているわけではない。
 
提出できない整合性を要求され、それに答えることしか相手が知らない場合、その言葉はときとして相手にとっては凶器にもなり、失意にもつながる。
 
あるいは、実に芸術性の高いいい作品があるとして、それがよくわからない…という人の話を聞いていると、同じように、この「なぜ?」「どうして?」ばかりにとらわれているということがある。つまりは、自分の感覚や感性に身をゆだねることへの怖れが、これまでの学習や経験、前頭葉で処理できるものだけによって理解しようとするからだ。
 
たとえば、人が人に恋するとき、そこに属性は必要なのだろうか。あるいは、「なぜ?」「どうして?」はあるのだろうか。
 
いまは男女共に相手を値踏みする時代だから属性に頼る人は少なくないかもしれない。しかし、より単純に考えてしまえば、属性だけで異性を選択し、互いがその体を心から委ね合い、性的な開放と満足感がえられるものだろうか。心と身体の結びつきを愛というものに結晶できるのだろうか。
 
恋しいと何かに思いを持つことに、なぜ、どうしてはいらないように、人がなにかに情熱を傾けたり、なにかを目標として時間といのちを削ることに理由は根拠はいらない。また、理由や根拠によって、情熱も、目標も、そして、そこから生まれる使命感もない。