秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

矛盾と不条理さ

福岡にいた少年期から思春期の頃、朝鮮半島はすぐそこ…という感覚があった。

朝鮮戦争の記憶がそう遠くない時代だったということもある。いまの福岡空港が板付基地と呼ばれ、対中国、対朝鮮半島のために、米軍や自衛隊の戦闘機や輸送機が駐留していたせいもあるだろう。米軍の航空ショーに板付にいったとき、戦闘機のコックピットに座らせてくれたのを覚えている。
 
板付に住んでいた頃は、普天間のように、夜間でも家の上空を米軍の戦闘機が爆音を挙げて通過する…ということがあった。基地反対闘争もあった。福岡空港は、いまでも住宅地のすぐ近くにある。旧小倉空港は朝鮮戦争時は、後方の主力基地で、当時も板付とそう変わってはいなかったと思う。米兵の姿やその家族連れの姿を目にするのは生活の普通の風景だった。
 
李承晩ラインを韓国政府が主張してからは、九州や中国地方の漁船が不当に拿捕される…ということも頻繁にあった。いまの竹島も問題だが、現実的にはそれをはるかに越えていた。拿捕され、抑留され、長い期間、帰れない日本人漁師がいたのだ。
いまなら、竹島どころではない騒ぎだったろう。
 
こんなことがどうして起きるのだ。国はなにをしているのだ…子ども心にもそう思い、オヤジにもどうしてなのだと聞いた記憶が鮮明にある。そのとき、オヤジがどう答えたか…確かな記憶がなぜかない。おそらく、明確にこうだといわなかったからだろうと思う。
 
ただ、ひとつだけ。「戦争をするわけにはいかん…」。その言葉だけが残っている。
 
同時に、福岡を始め、九州北部や旧炭鉱地には、韓国、朝鮮の人々が多く生活し、その2世世代も少なくなかった。そして、いつもどこかで、差別による喧嘩や対立、それへの報復の暴力が起きていた。それは、大人だけでなく、高校生でも普通のことだった。朝鮮、中国の人への差別用語は飲み屋でも家庭でも平気でされていた。その差別とそれへの報復…それが当り前の文化としてあったのだ。
 
また、台湾系を含め、中国の人は、飲食店やパチンコ店などを経営している人も多かった。高校時代、女子高の同級生たちと交流があって、そのひとりは、中州でも大きなパチンコ店や中華店、飲み屋を経営している台湾系の金持ちのひとり娘で、明るくて、かわいかった。
 
「いつでも来てよ。裏でパチンコ出るようにしてあげるから」。そういわれても、警察官の息子としてはノレない。当時の親友は、抜け駆けしてパチンコを出してもらい、高級中華まで御馳走になったらしい。いっとけばよかった…と思ったw

東京で生活するうちに、北朝鮮系の在日2世の兄弟ぐるみの友人ができた。子どもの頃に見た風景は互いに異なる立場で見ていただけで、差別と報復の空気はわかっている。オレがその辺の事情をよくわかっている分、相手も楽だったのだろう。それに、どこか奴らの自由人のW大出身のオジさんにオレが似ていたらしい。ずいぶん親しくなり、いま奴がロスに生活していても音信がある。
 
いま、あれこれ感情的な報道やそれに呼応する動きがいろいろなところで起きている。しかし、その中のどれだけの人が、朝鮮半島と隣接して、自分たちの生活があることを体感してきたのだろう。
 
また、隣接するがゆえの軋轢や対立があり、その矛盾を生活の一部とし、折り合い、そこに居続けるための肉弾戦を繰り返し、反発しながらも共に生活する道を探してきたのだろう。
 
相手は不幸な歴史とその恨みを語り、こうなったのはお前らのせいだといい、こちらはそうなったのは自分たちの能力や文化が低かったからだと攻撃する。果てはそれは間違った歴史で解放してやったんだとウソぶく。その中でも、やむなく、隣合わせに生きるということの現実を、どれくらいの人たちが知っているのだろう。
 
自分たちが思うような単純さ、思い通りの整合性…そんなものが通用しないのが隣接する国と国、民族と民族というものだ。島国の中だけで生活を成り立たせているとしか思っていない人たちには、それが見えない。
 
矛盾するもの、思い通りにはいかないもの、その中で、どう互いを成立させるのか。それは、自分の言い分が正しければそれで終ることではなく、矛盾と不条理さの中でしか、考えられないし、みえないのだ