秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

公平性と公共性の喪失

社会に常に求められるのは、公平性だ。しかし、成熟した資本主義社会の中では、万民が合意できる公平性を保つことは途轍もなく至難になる。なぜなら、生活に求める質が極度にカスタマイズされていき、人それぞれが求める生活の質とそれに伴う選択が多様性に満ちてしまうからだ。
 
自由主義経済と競争原理を基本とした野放図な資本主義社会(リベラリズム)は、それが成熟するほどに必然的に公平性を失っていく。そして、同時に、公共性という価値も衰退していく。いうまでもない、公共性は公平性を前提として人々に合意されていくものだからだ。
 
たとえば、いまではほとんど目にすることのなくなった公衆電話を例に考えてみよう。
 
公衆電話はそれが民間が設置したものであれ、前提に公共財としての価値を持つ。ゆえに、公衆電話というネーミングがされ、人々は、みなが公平に使う公共の電話として認識する。公衆電話の前に、列をつくり並ぶ…というのは、公共財を公平に使うという合意があって初めて成立するものだ。
 
ところが、あるとき、人々から公衆電話が、その名の通り、公衆のものであるという認識が希薄になったとしよう。
 
当然ながら、人々の合意が乱れ、列を乱す者が生まれる。自分が解釈する公平性の理解から、急いでいる人間が先だ…という理屈が生まれてくる。事故や事件という第三者においても緊急とみなされると同じ質、価値として、自分の緊急性を解釈し、一般的にいわれる、公平性から考えて、自分の行為は妥当だと考える人間が出現する。
 
世の中に、公衆電話というものしかなければ、それは道徳的な問題、社会ルールや規範の問題として、議論を集中することができるかもしれない。だが、ひるがえって、今日の状況をみれば、いまや公衆電話を利用する人々はわずかで、ほとんどの人々が携帯電話というプライベートツールを保持している。
 
いうまでもなく、プライベートツールには、マナーというものはあっても、さきほどの公衆電話と同じような社会通念として、人々が合意できる公共性が希薄化しやすい。
 
そうなると、成熟社会がもたらした、携帯電話(モバイルツール)が人々の生活意識にあった公共性への認識を変えていく。それは公平性すらもカスタマイズという枠の中に取り込んでいく。個人の都合、ある集団の論理だけが最重要となっていってしまう。
 
たかが公衆電話や携帯電話の問題…と考える人がいるかもしれない。だが、いまこの国で起きている様々な社会的事象と新たな課題の基本には、実は、この社会の公平性と公共性といったものの瓦解が大きく横たわっている。

 
たとえば、福島県は気の毒だから人々は福島の問題を考える必要があるのだろうか? 原発は事故を起し、被ばくした人々や地域を奪われた人々がかわいそうだから、反対しなくてはいけないのだろうか? 瓦礫処理問題は、それを早くやらないと地域が復興しないから知恵をめぐらさなければいけないのだろうか? たとえば、大津市のいじめ自殺は、自殺した生徒が気の毒だから、議論しなくてはいけないことなのだろうか? 
 
そうではない。公平性と公共性を失って起きている社会的な事象だから、議論しなくてはならないのだ。なぜなら、それは、ある地域の特殊な事案ではなく、この極東の島国に生きる同じ国民、あるいは生活者だからだ。公平性と公共性を喪失した事案が起きるということは、自分の家庭、地域、生活社会…国家全体、国民全体においても起こりうる事案であるからだ。
 
もっといえば、それは国内の問題でとどまることではなく、日本という国が世界から公平性と公共性を失った国だと理解されてはならないからだ。そのことによって、大きな国益を損失するかもしれない…その公共性を持ちうるからだ。

あらゆる生活の質が、そして、あらゆる個々のカスタマイズが、実は、それらの安定の上に、成立しているに過ぎない…ということに人々は気づかなくてはならない。