秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

無知の産物

深夜、シノプシス原稿に向かいながら、疲れてソファに横なると、ふと数年前から考えている、ある別の映画企画のことが頭をよぎった。実は、拙著「思春期のこころをつかむ会話術」もその中から生まれている。
 
最新の資料をネットで検索すると、追加資料ともいえるデータがずいぶん登場している。プリントアウトするとA4のコピー用紙一束分にもなった。
 
ふと頭に浮かんで、そこまで出力したのはわけがあって、いまインディーズ系で公開されているある映画があって、その映画に痛烈ながら、的確な批判をしているネットの書き込みを読んだからだ。その批判を読んでいるだけで、ほぼその映画のクオリティがわかるくらいw
 
その批判を裏付けるように、新しく提供されていたネット情報は、ある題材の大切な深層に迫っている。つまりは、その深層をとらえきれないまま、稚拙であるがゆえに、多くの批判や揶揄が書きこまれてしまったのだろう。つまり、ある意味、身勝手な情感だけでつくられた作品なのだろう…ということが直感できた。
 
映画、舞台のつくり手で、よく情感に流された作品をつくる人たちがいる。本人が情感にながされてつくっているから、その作品の良し悪しはもとより、扱っている題材や視点のとり方がそれでいいのかどうかの検証を素通りする。素通りしていることすら気づかない。自分は十分に扱っている題材について理解しているものと勘違いしている。あるいは、これは届けなくていけないメッセージなのだと気負っている。
 
一言でいえば、きちんと対象と向き合ったところがないのだ。自分の思い込が過ぎるのではないか…。見落としがあるのではないか。こういう視点が別にあったもいいのではないか。観客や視聴者からみたとき、つまりは、世阿弥のいう「見所の見」からみて、それはどううつるのか…という複眼がない。

知性や教養というのは、そのために必要なのだ。情感に足をとられる人というのは、押しなべて、そうしたものがない。だから、学習をしようとしない。これまでの経験や意見を同じくする人の輪の中だけで、自論の正当性ばかりを確かめたがる。
 
ものをつくる人は、自分がつくるものに対しても、そして自分自身に対しても冷徹でなくてはいけない。愛情や思いとは別の次元で、ものをみ、つくられなくてはいけない。そして、決して、つくるものの中に、「自分」を勘定に入れてはいけない。かりにそれが、自分という人間の矮小な体験を題材にしていても、つくるということにおいて、自分を棚上げにしなくてはいけない。
 
それは情緒や情感だけで芝居をやる役者がうざくて、ベタなように、作品までもうざくて、ベタなものにしてしまうからだ。
そうした場合、多くがそこに正義ややさしさという物差しを持ち出す。正義ややさしさなどというものは、所詮、こざかしい、無知さの産物でしかないことは歴史が証明している。