秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

ツールではなくなる時代

震災後、地域というもののあり方を基本から見直そうという空気が広がっている。
 
東京や大都市圏にいて、日々の暮らしに追われているか、かまけている人たちには実感がないのかもしれないが、これまでのような都市的なものを目指すことの不易性に目覚めている人は実は少なくない。
 
生活の質や水準の基本を都市的なものに求めることによって、失われているもの、失われてしまったのものが、実は、人が生活というものを成立させる上で重要なものではないのか…という問いだ。
 
これは、すでに10年以上前から、生活空間の過剰流動性が生み出す、家庭、地域、社会における人々の居場所の喪失という視点で指摘され続けていた。オレ自身、宮台真司や齋藤環、宮崎学ら識者たちといろいろな場でそれを論じてきたし、人権関連の講演などでもそうした話をしてきている。
 
が、しかし。度々、述べているが、かといって、懐古趣味として昭和を振り返ってみたり、高度成長期の日本人の姿に、未来への遺産を見出そうしても、そこに解決の方向性、志向性が生み出せることはない。それは、単に、居場所の喪失感を埋め合わせようという情緒的なものに過ぎないからだ。
 
マーケットは、ビジネスになるから、情緒にのっかって、映画から物販までもがそのラインを展開し、それがまた、情緒的昭和主義や高度成長時代へ郷愁を煽る。これは実は、政治的にいろいろな危険性を随伴している。
 
生活の質や精神、その連続性によって、生活そのものを豊かにできる時代はとうに終わっている。戦前の一億総玉砕の精神を反転させることで、戦後の高度成長があったように、人々に現実的な利益を保証してきた制度、システムは一貫していたのだ。不連続性や大転換なしに、連続性、いわば経験主義や蓄積された制度的所作、ふるまいで、その対象や手法、やり方、目的を変えれば、大方の目標が達成できた。
 
もちろん、そこには賞賛に値する日本人の精神や質があったことは否定しない。しかし、同時に、その精神と質が今日の硬直化したいろいろな制度、システムをつくりあげてきたというのも、また事実なのだ。

地域そのもののあり方を見直そうとするとき、この視点があるかないかで、見直しの姿勢も論点も大きく変わる。かつ、その姿勢や論点が実現しようとしている地域及び国のあり方も変わる。
 
オレの友人や知り合いを含め、被災地支援を通じて、地域のあり方を見直さなければ…と考えていたり、あるいは、現地に深く関わっている友人がいうように、被災地を新しいビジネスの場としか考えていない連中もいる。
 
だが、ひとつの地域だけで自立や新生、ビジネスが実現できるほど、問題はお手軽ではない。情緒の共有と一瞬の荒稼ぎはできても、地域が持つ、まるでマクドナルド的均一化の呪縛から逃れることは不可能といっていい。

目覚めた地域の少数の人々が同じ問題を突破しようと考える他の地域の人々と結びつき、これまでの行政の枠、地域の枠から自由になり、中央を通さず、横の広がりとつながりを確かなものにしていく以外、地域を新しい形で再生、かつ新生する道はないのだ。
 
なぜなら、地域が抱える問題は、ひとつの地域の問題ではなく、全国で共通する問題であり、課題であるからだ。いうまでもなく、都市へと顔を向ける中で、マクドナルド的地域が全国に多店舗展開してしまったから。
 
オレ流にいえば、インフォメーション・ターミナルとしてのITにこだわり、Yahooや楽天などいった、これまで流通しているITビジネスの概念を越えた、ポータルの必要性をいっているのはそこだ。
 
FBというツールが人々の横の連携に新しい基軸と手がかりを与えた。アメリカではすでに、FBのビジネスツールとしての一面すら排除した、CIVIC NET WORKという新しい市民ネットワークのシステムが登場している。
 
バーチャルとリアルなどという干からびた見方はもはや過去の遺物だ。多元的空間生活を当然とするいまの生活の中の、新しい共有空間として、ITツールがツールとしての独自性を勝ち得る時代が、直前まで来ている。
 
ツールはもはやツールではなくなる時代がきているのだ。