秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

お天道様に恥ずかしい

宗教的なるものが成立するためには、見えざる何かへの人々の畏怖や畏敬がなくてはならない。
 
街が不夜城となり、夜の闇の不可思議さが身近なものでなくれなば、当然ながら、神秘や不可解さへの畏怖と畏敬は失われていく。暗がりや視界不十分、往く道への不案内は、キケンだし、不安と同伴するが、同時に、人の予測、予見といった力を授けてくれる。
 
その感覚は、いわゆる五感を総動員した向こうにある、通常では得られない、人の潜在能力のようなものだ。もともと、人は脳を半分も使っていはいない。不明との出会いが、実は、それを活性化させる。そこに、見えざる何かの感触を感じ取る力を生み出す。不明性は実は、人間にとって重要な役割を担っている。
 
しかし、不明性は、まったくその姿が見えないという状況では、不明性ゆえの不安や怖れを生まない。
 
食肉が調理しやすいように提供され、魚の切り身がパックで提供されていては、いのちというものの実感が遠のく。24時間いつもでも食を満たすことのできるコンビニがあれば、ひとつの食物、料理が誕生するまでのいのちのかかわりやその手間暇を知ることもない。
 
不明性は、だから、見えていなくてはいけない。見えながら、なぜ?という疑問を抱かせるものでなくてはいけないからだ。
 
人が自然界においては、小さな一部に過ぎず、見えない何かの規則性や真理の中で生かされているのではないかという観念が生れるためには、闇への怖れやいのちを食べて生きているという人間の圧倒的な現実がどこかに感じられていなくてはいけない。
 
夜空に天の川が見え、月の満ち欠けが日常的にある…という暮らしは、おのずと宇宙というものを人々に伝えるし、潮の満ち引きなど、ある規則性の中でそれがそこにあるという驚きへも導いてくれる。
 
ドイツの農家で、豚を解体し、家族総出でソーセージつくりやハムづくりをやれば、当然ながら、そこにいのちへの感謝も生まれる。
 
便利なものができた…それだけですませる時代をオレたちは生きてきた。闇や人が生きる現実を遠ざける中で、多くを消費し、地球を食べてきた。
 
ラフカディ・オハーンなど、明治初期、お雇い外国人が多数、来日し、この国、国民の姿に強烈な感動を覚えたことを知る人は少ない。彼らが感動しのは、欧米文化とは真逆の道を歩みながら、そこにあった人々の心の豊かさや教育水準の高さだった。

当然ながら、そこには自然や宇宙といった見えざる何かへの畏怖と畏敬があった。社会倫理、社会規範などが成分化されずとも人々の中に根付いている。そこに驚いたのだ。
 
お天道様に恥ずかしい…。物事は複雑ではない。そんな一言の実感が持てなくなったら、積み木崩しのように、倫理も規範も溶解していく。