秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

日本人のいなくなった日本

 
 
この世の中、何事につけ、配慮が過剰だったり、過小だったりする。

配慮が過剰になる…というのは、他人の眼や評価が気になるということがある。
あるいは、誠意とはこういうものだという内部圧力と思い込みが強すぎて、「小さな親切、大きなお世話」を忘れてしまうことがある。相手は喜ぶはずだ…という身勝手。いずれも中心にあるのは自分だ。

これは相手を不愉快にさせてしまうこともあれば、上気させて、自分への好感や何かの思いがあるのではないかという誤解をつくる。
 
配慮が過小になる…というのは、人の気持や周囲の人間関係がよく見えない鈍感さがある。あるいは、人を意識する必要はない。自分がよければそれでいいと他者を顧みないでそうなってしまうことがある。これも結局、自分の小さな世界で他者をみようとしていないことから起きる。

こうした人たちは、配慮ということ自体を知らない。自分の思いや考えを当然のことと思い、回りをみていないことを配慮とはいわない。相手や周囲がどう感じるか、どう思うかを考えて発言し、行動することを配慮というのだ。

配慮とは、だから礼儀だ。これは相手が求めている配慮なのか、この配慮は誤解をつくらないか、あるいは、ここでは配慮を尽くさなくてはいけないのではないかを考え、発言し、行動するには礼儀がいる。

自分が相手にどう思われるかどうかではなく、ときには毅然とした姿勢を持って、相手に向う。それが配慮を支える礼儀。それがないから、過剰な配慮で誤解を生む。

結局は、互いへの礼儀というけじめのなさが配慮というものの塩梅を失わせている。
 
それが見えないところで、他者の気持をさかなでにしたり、気づかないところで人を傷つけ、ときには誤解をつくる。が、しかし…それ自体にも自覚がないというのが、いまの世の中。

そんな矜持の失われたこの国で、まっとうに生き抜くのは容易ではない。日本人のいなくなった国に日本人として生きるのは容易いことではないからだ。

だから、かつてのJINのようなドラマがヒットする。