秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

身勝手な脳

綻びやほつれ。そうしたものを人は嫌う。
 
綻びやほつれが、そのもの自体を危うくする…ということをどこかで知っているからだ。そこで、人は綻びやほつれを取り繕う。少しでも、そのものに迫る、危うさを遠ざけたいがために、人は、とりあえず、綻びやほつれを取り繕おうとする。
 
なにものかを大事にする心…それはいけないことではない。
 
オレが子どもの頃は、繕いのある服や物を身に着けのが当たり前だった。後に、エルボーパッチのスウェーターが登場し、穴あきジーンズがファッションになり、パッチワークのあるTシャツが現れて、「なんだ、オレたちの子どもの頃のファッションじゃないか…」と、思った人はきっと少なくないだろうw
 
もったいない…それが当り前の世の中は決して、悪いものではない。それは人へのやさしさにもつながる。
 
が、しかし。繕って、繕って、繕い切ってしまえば、やはり、そのものはダメになる。タオルがダメになれば、雑巾になり、雑巾がダメになれば、それはやがてゴミになるしかない。
 
ほつれたニットは、繕い切れなくなれば、ほつれを解き、もう一度、毛糸玉に戻すしかない。ベストやスウェーター、カーディガンは、もとの形をなくし、ただの毛糸玉にしかならない。それをまた一から編み直しても、以前とまったく同じものができるわけでもない。
 
つまり、いくら取り繕ってみても、一旦、綻びやほつれが生まれてしまったものは、元に戻すことはできないのだ。これは、ものだけでなく、人と人の関係においても同じことがいえる。問題を先送りにし、その場を取り繕うだけの関係では、本質的な関係の改善にはならない。ごまかし、まやかしでしかないのだ。
 
しかし、ごまかし、まやかしでうまくいくほど、人と人の関係、人の心はやわなものではない。ごまかしやまかやしが必要なのは、実は、その関係をなんとか維持しなくてはいけないという、人の眼を意識した、見栄、体裁といった取り繕いが自分の中にあるからだ。それはその関係への執着がさせているのではなく、自分への執着がさせている。
 
この世の中、いつまでも続くものはひとつとしてない。ひとり一人の人生を振り返ってみても、ずっと同じに生きてきた歴史などひとつもない。人は変化の中でしか生きられない。その変化に対応できてきたから、いまの人類の繁栄もある。
 
もはや保つことのできない、取り繕いを繰り返すのではなく、変化をどう生きるか…それを考えるときに、すべての人の「いま」がある。それは地球規模のこと、世界規模のこと、国家規模のことだけでなく、私たちひとり一人の生活のあり方にこそあるのだ。

政治がつまらない。経済がうまくいかない。教育が危ない。人心が乱れ、社会不安になる。それは、取り繕ってばかりきた、私たちの社会や私たちひとり一人の生活が根本の要因にある。世間体や体面ばかりを重視し、事なかれですませようとしてきたツケ。
 
古い脳を捨てて、新しい脳へ。身勝手な脳がつくった、手前勝手な記憶の歪みを糺せば、体裁や見栄をはるほど、自分は、大した生き物ではないことはすぐにわかる。