秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

人の心は必ず大きく動く…

なにが間違いなくて、なにが安全なのか…どの道がよりよくて、どの道を選択すべきなのか…
 
企画台本の制作やイベントの企画制作で、それに迷うことはほとんどなかった。オレ自身の思いの置き所が決まれば、それはそのまま実現への道を突き進むことができた。
 
簡単なことだ。それは、生業としてやることであり、そのために応分の予算をえているからだ。自社の利益率を上げるために、業者やスタッフにできるだけ安くやる工夫は当然ながらお願いする。しかし、必要とあらば、別のところを削って、かかるべきところに予算を傾注する…ということもできる。
 
いろいろな不測事態があっても、プロの工夫とそれを支える金銭的保証がある。だから、不測のことが起きても、それに対応するだけのゆとりがある。
 
しかし、今回の大いわき祭は違う。まずは、金がないのだから、善意とボランティア精神だけに頼るしかない。善意とボランティア精神というのは、実は途轍もない曲者だ。
 
なぜなら、善意とボランティア精神は共有できても、思いと願いをすべて一つにすることはできないからだ。思いと願いをすべて一つにできないということは、行動もまったく同じにはできないことを意味している。同時に、専門家の集まりではないから、思いや願いは棚上げして、せいのでプロとしてまとめていくということもできない。
 
専門知識や経験がないから、やりたくてもできないこと…というのが、善意とボランティア精神にはある。同時に、善意とボランティア精神に支えられているから、普段できないことができる…ということもある。しかし、またそれは同時に、善意とボランティア精神だから、ここまでしかできないという限界とも隣合わせになっている。
 
この活動がすでに何年かの経過と実績を持っているのなら、それもまだ、問題はない。しかし、それが初めての試みとなれば、その在り方は顕著に出現する。
 
まして、これをやらなくては明日食べるに困る…ということはないのだ。やり過ぎて、オレのように仕事そっちのけ…という状態もだれもがやれることではないだろう。
 
だから、できることをそれぞれがやる…という基本にもどらざるえなくなる。しかし、それでは、できなことも生まれる。そのできなことを何で、どう調整し、埋めていくのか。そのためにはどのような手立てがよいのか…
 
結局、最初の命題に戻って、何度も心を砕かなくていけなくなる…という循環に陥る。これらすべて、物理的な保証があれば、ほぼ片付く問題ばかりなのだ。
 
金がない。だったら、これだけでいいじゃないか。という考え方がある。金はないが、何とか工夫してやれないだろうか。という考え方もある。当然、前者の方が楽で、後者の方が手間暇と労力がいる。人脈も人間関係もいる。
 
だからこそ、なぜ、オレは、自分はこれをやろうとしているのか…と問われるのではないか。その問いにまければ、やめた方が楽に決まっている。
 
今回の大いわき祭は、オレたちの活動のスタートライン。それだけに大事だ。最初のスタートの規模と形と内容で、これからの活動のすべてが決まる…とオレは思っている。ちょっとした思いつきの支援活動なら、そこまではオレも考えない。チャらく、アリバイのように形を整える…ということをやっただろう。
 
しかし、オレの思いと願いは、また別のところにある。それがいますぐすべての人に共有されなくても、大いわき祭という姿を示せば、その向こうにきっとその姿が見えてくる…と信じているのだ。だから、何事につけ、ギリギリまで、粘っている。そのために、遅れることもある。ひとりのたうちまわり…。
 
愚かなことかもしれない。浅はかなのかもしれない。しかし、計算高いだけで人は人を信じるのだろうか…みっともないばかりの姿かもしれないが…泣かせたり、心配させたり、迷惑をかけている人も少なくはない。
 
しかし、それくらいしないと、人の心は簡単には動かない。だが、見えていなかったものが見えたとき、人の心は必ず、大きく動く…。