秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

根気のいる作業…

人は自分が思うほど、自分を理解してくれてはいない。
 
しかし、同時に、人は自分が思うほど他人を理解してはいない。
 
愛し合う二人の影が、ひとつに重なっているように見えても、二人が互いを理解して合っていることの方が少ない。
 
互いがそれぞれの都合と感情で理解し合っているという幻想を共有しているから、ひとつに重なっているような錯覚を真実と誤解することができているだけなのだ…
 
というような文章がサミュエル・ベケットの評論の中にあったと思う。

だから、互いは理解し合えてない…ということから出発した方が、コミュニケーションというものはうまくいく。違いに直面しても動揺したり、苛立ったり、傷ついたりすることが少なくなるからだ。感情的にならないで済む分、互いの違いを冷静に理解し、埋めようと努力することもできる。あるいは、リリースすることも容易だ。
 
しかし、人は他者への思いやりややさしさがあるばかりに、ひとつにならなくては…とか、理解できていないこと、わかりあえていないことの間隙を埋めなくてはと考えてしまう。それは人が人に期待を寄せるからであり、人が人に希望を託そうとするからだ。
 
だから…
 
人を全部理解しようとすることの方が難しいんじゃねぇ? わからないところがあって、いいんじゃねぇ? という風に流せないのが人の世というものだし、何事が人が集り、ある目標に向かって進もうとすれば、理解できなくていいじゃねぇ?…とはすまされないことも出てくる。

物事には文脈というものがあるのだけれど、デジタル時代になってから、人は文脈を読むということが途轍もなく苦手になってしまった。時系列の情報を点では理解できても、流れと背景をつかまないから、点で得た情報はそれぞの解釈と理解にとどまり、文脈という普遍性にたどりつけない。

で、結果、ますます点での人の結びつきが主となり、文脈で人とつながることができなくなっている。ゆえに、ますます、人と人の理解の壁は深くなり、厚くなる…というのがいまという時代なのだろう。
 
文脈の詰めをやる段階になった、大いわき祭…。毎日、散らばった点を拾い集めて、細い糸に点(珠)をつなぐ、根気のいる作業が続いている…