秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

表現者の倫理

昨夜、NHKの特集で、河瀬監督が発起人になって、東日本大震災をテーマにした映画制作を世界の映画監督に声をかけ、それぞれが制作し、河瀬監督の十八番である、奈良で上映会が実施された内容が描かれていました…
 
HOME…をキーワードにつくられた、3分11秒のショートムービー…それぞれの監督がそれぞれの思いで解釈した今回の被災と思いが映像になっています。
 
が、しかし、それに強い違和感を覚えたのは、私だけでしょうか…。
 
被災後、若手、無名、著名監督を含め、いろいろな映画人、テレビ関係者が被災地の被害や家族、地域の人々、商店、学校を追いかけていたのはよく知られています。私自身、小型の業務用カメラを抱えて、被災地の現状をいろいろな角度から取材していました。

しかし、私が辿りついた結論は、映画をつくることではなく、まずは、被災地の現実や人々の声を直接、市民に届けることでした。作品としてではなく、そのためのツールとしてしか、収録した映像を考えなかったのです。

マスコミが流す報道や情報には、とてつもないバイアスがかかっています。原発では、単に東電だけを悪人に仕立て、大衆心理を利用して、強烈なパッシングをやる。一方で、政治や政権批判を展開し、被災者の窮乏した状況を語る正義の代弁者になる…

被災地の声を聴いている…といいながら、結局は、自分たちが発信したいメッセージに加工できる声だけを集合し、編集し、声を荒立てているだけに過ぎない…と私には見えたのです。
 
家族の絆の大切さやいのちの重さ、そして、いろいろな民間のボランティアや支え合いの美しさ…そればかりを強調するようなマスコミや映画作家の被災地のとらえ方、人々へのまなざしは、決して、人を正確にとらえているとはいえません。
 
いつもいうように、きれいごとで済むなら、復興や復旧、原発対応ももっとすばやくやれているのです。どうしようもない人間同士の対立や意志や願いの相違、既存の既得権にしがみつていしか、この震災を乗り切ることを考えられない石頭…
 
その一方で、たくしましく、より現実的に今日や明日の糧をえるために、なにふりかまわず、生き抜こうとしている人たちなど…被災地の現実は、すべてが美しも尊くもありません。支援する側にも、様々な思惑や算段があったりするのです。
 
その現実を素通りして、果たして、映画などつくれるものなのでしょうか? やった気になていられる…私には、河瀬監督の取り組みは、失礼ながら、その程度のプロジェクトにしかみえないのです。
 
被災地が求めているのは、現実の対応です。そして、同時に、この震災をどうとらえ、どう生きるかという大きな視座がなくては、復興、復旧などできはしないのです。
 
映画監督であれ、何であれ、表現者であるならば、まず、それに気づき、自分にできる具体的な行動から始めるのが人というものではないのでしょうか。3分11秒の映画をつくって、被災地のだれが救われるのでしょう。だれが、それによって、生きる希望や明日への糧をえられるのでしょう。
 
行動のともなわない、表現は、政治や治世や時代に直接かかわってはいけない。それは、表現者の最低限の倫理です。