秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

何年続ければ目覚めるか

 
 
ベトナム戦争を描いた映画は数多くある。名作『ディア・ハンター』、『プラトーン』はその代表的な作品。

直接的ではないが、『イージーライダー』『タクシードライバー』などアメリカンニューシネマの大半がベトナム戦争を背景として描かれている。
 
その中でも、『プラトーン』は、サミュエル・バーバーの名曲"Adagio For Strings (Agnus Dei)" (弦楽のためのアダージョ)をバックに、戦争という不条理の中で人間がいかにあさましい存在かを射抜いている点で秀逸だと思う。『ディアハンター』も同じ。
 
人は、平時にあって、よき人であろう、よき心を持とうとすることはできる。できないまでも、そうあるべきだと合意することもできるし、ありたいと願うこともそう難しくはない。
 
しかし、有事にあって、人はそうできないことの方が多いし、できない人の方がはるかに多い。実存主義は人間疎外という言葉でそれを語る。確かに人間性基本的人権を戦争はまっこうから否定している。
 
だが、本来人間というものは、平時にあっても、人々が思うほど、良き人にはできていないし、良き人でないからこそ、人間的だといえるのだ。オレたちは、「人間性」や「人間らしさ」という言葉をいつからか、はき違えて解釈している…とオレは思う。

人々が宗教というものを持ち、あるいは法制度というものを社会や国のしくみとしなくてはいけないのは、すべからく、人が何をしでかすかわからない存在ということをよく知っているからだ。
 
何かのボタンの掛け違いがあれば、それひとつで人は豹変しうる。それを知るからこそ、宗教倫理や道徳、それを背景とした法を必要とした。有事というのはそれが破られた状態。つまりは、人間の本来性がそこにあるからということもできる。

キレイごとでは人間の問題、社会や世界の事柄は片付かない。また、キレイごとだけで人は救えない。救えないどころか、キレイごとばかりで塗り固めた社会は、キレイごとで生きられない人々をスポイルもすれば、深く傷つける。キレイごとであろうとすることが、まさに人を疎外する。

つまりは、キレイごと過ぎる社会とは有事に匹敵する。生半可な正義や中途半端な倫理観、身勝手な都合を押し付け、それが総意であるかのような社会は実に息苦しい。息苦しいばかりか、狂気を生む。狂気にいけないものは自死する。あるいはひきこもる。
 
そんな世を何年続ければ、この国は目覚めるのか。いつまでキレイであろうとすることばかりに執着し続け、人の世の現実から目を遠ざけたままでいるか…