秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

覚悟の中の見切り

このところ、人に会うごとに、心の中にため息がもれる。

いまの生活や環境、もっといえば、この国のフレームがこれからも変わることなく続く…と信じて疑わない人たちが驚くほど多いことだ。
 
東日本大震災がもらたらしたもの、それはこれからもたらすものの方がはるかに大きい。それを射程距離に入れて、いまの生活や仕事、政治や経済をみつめている者とそうではない者との意識の隔絶が大きすぎる…とオレは思う。
 
いままで、いろいろあっても、なんとなくやれてきた…なのだから、これからも、いろいろあるがなんとなくやていくだろう。本心ではそう思っていないかもしれないが、そうありたいという、伸びたラーメンのようなことを考えている人間が少なくはない。

原発周辺の住民の一部が新しい生活へ踏み出せない思いの中にも、瓦礫の中で生活が不自由であるにもかかわらず、半壊の家に住み続けようとする人にも、そして節電し、景気が悪いね…と口を揃えて愚痴っている被災していない人々の中にも、それに似たにおいがある。

被災地の多くが震災から2ヵ月半が経ちながら、瓦礫や
半壊家屋の撤去に手つかずのまま。福島第一原発周辺やそのまた周辺のいわき市などでも、瓦礫処理に放射能の数値検査をやりながらだから、一層の遅滞が出ている。
 
人はどうしても今までの生活の枠を変えたがらない。とくに流動性になれていない、土地の人、中高年はそうだろう。また、これまでのように都市生活は守られるものだと思い込んでいる人もしかり。かつ、いままでの政治の方程式、官僚的手順しかしらない輩もそうだ。
 
しかし、その人たちの見切りをつけられない思いの一つ一つが、これほどまでに復旧作業を遅延させている…とみるのはオレだけだろうか。
 
それはいわば執着だ。
 
よく、早く元の生活に…という言葉を聞く。冷たい言い方になるが、元の生活に戻れる道などない。なぜなら、あれだけの人の命が奪われたのだ。悲しみの深さとは別に、失った命は帰らない。それひとつとっても、もう元の生活ではない。

火をともすようにして建てた家、住み慣れた家屋、町並み…それも元のように戻すことなどできはしない。あくまで、のようなもの…の範囲でしかない。地域の枠を崩したくないと思っても、人ひとり一人の生活と震災の傷はそれぞれ。新しい職場や仕事、生活を求める人がいて何の不思議もない。
 
つまりは、すべからく元へ戻る道はないのだ。
 
いま世界で、そして、この国で起きていることには大きなサイファがある。その暗号の共通するものは、終わりの始まりだ。始まりは、見切りからしか生まれない。
 
ゆるくぬるい情感だけではやっつけれられない新しい課題がオレたちの前には立ちはだかっている。それに立ち向かう力は、覚悟の中での見切りなのだ。
 
執着を捨てることは容易ではない。しかし、涙したあとには、そこから自由になる覚悟が求められる。覚悟のない人間が新しい一歩を踏み出すことも、新しい世をつくりだすこともできるはずがない。
 
それはいまこの国の人、すべてが共有しておかなくていはいけない、覚悟だ。