秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

福島を救おうプロジェクト -自立せよ-

いわき市の被災地がどうしてマスコミから取り残されたのか。
 
連休特集の週刊文春のコラムで、ジャーナリストの上杉隆が、“「50キロ自己規制」自分の身だけを守る卑怯な記者たち” で痛烈にいまのマスコミのあり方を批判している。
 
まさに、上杉が指摘したように、水素爆発が起きたとき、一目散に逃げ出したのは、NHK、朝日を始め、名だたるマスコミだった。ネット上や国会で戦わされている意味のない論戦…。それをやっている輩も、原発周辺地域にいったことのない輩ばかり。
 
そんな奴らが、この国の先々について意見を平気で述べ、政治家にいたっては復興をやろうとしている。
 
たとえば、朝日など大手新聞社は、もし何かあったら、「だれが責任をとるのだ!」という、上司や組織の責任逃れから、社員が現地へ入りたいといっても、上から禁止される。これは、今回の原発事故に始まったことではなく、アフガンやイラク、いま最中にあるリビアなど、紛争地域においても同じだ。
 
もし、そこで、命を落とす、あるいは、大けがをする…そんなことが起きたら自分たちまでもがやばくなる…パッシングされると、役員たちも、そして、上司も、保身から取材活動を抑えている。危険な場所へ入るのは、だから、スクープの欲しいフリーのジャーナリストやカメラマンばかりということになる。
 
だが、こうした輩は輩で、報道はできても、それをどう社会につなぐかのコンタクトが弱い。所詮は職人たちだからだ。したがって、その情報は一部にしか流れないということにもなる。

つまりは、いまこの国は、大きな組織であればあるほど、責任逃れに終始して、自分たちが担っている社会的使命のために、いのちをかけるなんて、根性はどこにもないのだ。そんな奴らが、マスコミでも、政治の舞台でも、背広をきて、政治を語り、国民のためだと正義を語っている。
 
自分たちの根性のなさは棚上げして、人を責め、他者を責める。劣悪極まりない、みのもんだの朝の番組はその顕著たるものだ。しかし、その程度の稚拙な能力しかない奴らに、簡単に操作され、あちこちの職場、街角、飲み屋で、同じようにコピーされた危機ばかりを語り合って、安心している。
 
 
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いわき市の現場を見た後、オレたちは、内陸の会津へ向かった。そこに原発の避難l区域にある住民が避難していたからだ。
 
物資を提供しながら、お話を伺うと、これで何か所目かの避難場所。この後、猪苗代湖のホテルへ避難するという。
 
「いつまでかかるのか…それが知りたい」「地元の信金が被災してお金が下せなイメージ 2い…」といった実状を語られる。しかし、そこに悲壮感はなかった。どの方も2年から3年は家に戻れない…とどこかで覚悟を決めているように思えた。
 
犬がいるために、このひと月以上車中泊を続けていたという方も。やっと家のローンも終わり、リニューアルもしたところで、今回の震災、そして、避難…やりきれない思いでいっぱいだろう…
 
しかし、どこか心の整理をつけ、これまでの生活に見切りをつよけようとされている、覚悟…いや、決意が見えたのだ。
 
この後、もう一か所避難所を訪ね、そこで、物資を提供し、京都府や京都周辺の市の自治体から応援にかけつけていた看護士、保健士さんたちに話をうかがう。もともと、京都と会津は維新前から深いつながりにある。奇妙な歴史的符号…。
 
会津から郡山に戻り、ビッグパレッドへ…。そこでオレたちが見たものは…
 
到底、会津の避難所にいる方たちとは比べようもない状況だった。施設は美しいが、そのありさまは、新宿のガード下のような様相。段ボールで仕切り、なんとかプライベートを確保している状態。
 
だが、オレたちが一番、気になったのは、避難所全体に広がっている倦怠感だった。ふと、以前、ブログで紹介した、「福島の人がいまさら原発非難をするのはおかしい…」といった女性の言葉がよみがえった。
 
自分たちで立ち上がろうという気迫や覚悟、決意がまったく見えなかったからだ。どこかに、「してもうらうのことが当たり前」といった空気がある。子どもたちは、ゲーム機やカード遊びに夢中。高齢者はただ横になっている…。若い連中もいるのだろうが、この避難所から自力で出ていこうという明るさがない。
 
どうしてこうした空気が生まれてしまったのか…避難生活が長期に及ぶといういこともあるだろう。施設が広大で、自分の存在感が薄れがちになるということもあるだろう…あるいは、40年以上もの間、原発の恩恵の中で生きてきたことと無縁ではないのではないか…。
 
しかし、会津の避難所で出会った方たちにはある強靭さが確かにあった。同じ生活環境にありながら、その違いはどこから生まれているのか…
 
責任と自立…それが失われたとき、人は、自身の確かさも強さも見失う。その責任を東電や政府に求めることは実は簡単だ。しかし、現実には、いますぐ、元の生活、以前の暮らしに戻れない以上、自分自身の力で新しく前へ進み出すしかない。
 
根性がないのは、政治家やマスコミだけはない。こうした被災者を含め、何事かあれば、国や自治体や地元企業がなんとかしてくれる、するはずだと自分たち自身の責任を明確に、かつ自覚しこなかったことにもある。
 
福島を愛するがゆえに、地元住民の動揺に、落ち着けとメッセージを送り続けた、いわきジャーナルのSさん、ブログの女性…。そして、津波被害で被災した人や亡くなった方を思うと、自立せよ!と大声で叫びたくなった。
 
声はでない…。だれかを心から思う声は、心にたまっていく…。