秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

福島を救おうプロジェクト -想像力を働かせろ!-

29日早朝から昨夜の午後8時まで。新しく立ち上げたSocial Net Project 「MOVE」の最初の活動、「福島を救おうプロジェクト」の第一弾を実施した。
 
ルートは、当初、相馬→いわき→郡山→会津須賀川→白河。しかし、直前に、いわき市タウン情報誌「月刊りぃ~ど」を発行する、㈱いわきジャーナルと連絡がとれ、アポの時間の都合からいわき市へ。
 
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時間までの間、小名浜漁港の被災状況と現在の状態を確認する。港がほぼ津波で全壊状態だったらしい。いま整備は進んできているが、残された船宿や飲食店は、ほぼ壊滅状態。港内には、津波で水没した船舶が残されたまま…。
連休のこの時期、釣り客や鮮魚を求める観光客でにぎわう街は、廃材の中にひっそりといた。
 
丁度、クレーンによる船舶の撤去作業が行われていた。岸壁でその様子を見ていた漁業組合の方に取材。

「漁に出ようと思えば、出られる。しかし、水揚げしても風評でセリにかけてくれる市場はない。放射能検査で安全だといわれても、福島というだけで、受け付けてもらえない。いつ日常の暮らしに戻れるかわらないから、多くの漁師が、漁ができない間、出稼ぎやほかの仕事で食いつなぐことを考えている…」
 
漁業補償や生活補償の申請の受付は始まったらしい。だが、いつどういう形でそれが実施されるのかが、まったく見えていない。「お金のある人や貯蓄でつなげる人はいいが、そういう人はほとんどいないよ…」。
 
マスコミや評論家、政治家が語る言葉にああでもない、こうでもないと人々が訳知り顔で、机上の空論を続けている間、生活への締め付けがどんどん被災地に迫っている…
 
声高に正義を論じていれば、人の生活はよくなるのではない。プランのないところで、支援活動やボランティアに励んだところで、それで物事が解決するわけでもない。そういう力も必要だが、全員が右へならいのように、支援熱やボランティア熱にうかされる。それでは、現実を変える有効な力は見えてこない。
 
熱は思い込みを生む、それが対立の種ともなる。現実を無視した議論がそこに生まれる…そのつまらないことをこの国は、政治も市民も繰り返している。
 
危険を煽り、一点を過大報道するマスコミに踊らされて原発云々と学術会議よろしく素人分析するアホな輩もしかり。ああだこうだという前に、自分たちの訳知りな議論が風評を増大していることに、想像力を働かせろ!…といいたくなるのは、オレだけか。

震災後、地元NHKを始め、記者クラブ加盟の各社が原発の水素爆発で避難勧告が出た途端、住民とともに、いわき市を逃げ出した。その中で、社員わずか10人足らずの地元情報誌「月刊りぃ~ど」は、震災直後から被災地の取材に飛び回った。
 
編集長のSさんは、「いわきの現実を知ってほしい…」その願いだけで、IT、冊子、口コミなどあらゆる方法で裏付けのある情報を流し続けたのだ。新聞屋魂がそこにあった。
 
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「大手マスコミが逃げ出した後、いわきは孤立した。忘れら被災地になった…」。Sさんがいうように、実際に震災直後を取材した若い男性スタッフが撮影した塩野岬周辺の写真は、彼ら自身が指摘するように、三陸海岸に匹敵する被害の姿をとらえていた。映像には収録したが、オレの写真ではその姿を十分には紹介できないほどだ…。
 
「正しい情報かそうではないかではないんだよ。きちんと裏をとり、現場を知った上での生きた情報を流して欲しいんだ。しかも、復興へつなぐ前向きさを生むような…」。オレが風評被害について、尋ねるとSさんはそういった。実は、Sさんの家も海岸近くにあり、被災している。家は全壊。避難所から通っている。
 
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いただいた資料を参考に、実際に、塩野岬のある沼ノ内、豊間、薄磯へ。途中の沿線で倒壊した石材工場で探し物をする高齢のご夫婦に出会い、九死に一生を得たお話を伺う。そして、辿りついた、現地は…。オレの想像を越えるものではなかった。つまり、それほどに被害がひどかったのだ。一つの町が丸ごと津波にのみ込まれていた。
 
ジャーナルの若い男性スタッフの言葉、Sさんの言葉がよみがえった。「いわきは孤立した。忘れられた被災地になった…」。それは、いまも変わらない。
 
仲間が安全のためにと持ってきた、放射能の計測器の数字は、塩野岬周辺の被災地で計測すると、東京を出るときの60倍以上。おそらく、大手マスコミはそれを知って、ここを取材していない。自衛隊がからくもつくってくれた瓦礫の中の生活道路を走りながら、周辺を映像と写真に収める…
 
泣きたい思いがどこかにあった…だが、涙は出ない。心の中に少しずつ涙が溜まっていく…その感触だけがあった。
 
写真は公開しないが、倒壊した市営住宅の一室に入ると、女子小学生のバレーボールチームの優勝写真が壁に飾ったままだった。彼女の名前の入った賞状もあった。無事でいてくれたら…そう思いながら、その可能性が低いこともわかっていた。
 
忘れられた被災地は、いままだ、風評という嵐の中にある。
 
昼食をとった、地元の有名なレストラン「メヒコ」の女性スタッフのWさんに話を伺うと、震災後3週間は水もなかった。店が開業したのは、2週間前。しかし、常磐ハワイアンセンターへ来る団体客が昼食に立ち寄ってくれていたのが、6月までセンターが閉業しているため、売上は激減している。観光の足も風評にとまっている。
 
MOVEの資料に目を通したSさんが、いった。「秀嶋さん。いわきのことを都会の人に知らせてくれ。それにジャーナルのことも…」。冗談めかした言葉の中に、いわきの復興を支援して欲しいという熱意があった。
 
涙は出ない…涙は心の中にたまっていく。