秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

いまほど自由さが求められているときはない

原発事故の経過、被災地の状況、そこにある政権の対応のまずさや東電批判、さらには、その苦難の中で震災を乗り越えようとしている人々のヒューマンドキュメントの報道…
 
その陰に隠れて、まとまった経済情報が途切れている。
 
製造業を中心に、大企業の系列関連会社が生産を開始した、地元の代表的な企業が特産品の製造を開始した…といった喜ばしい情報の裏側で、飲食、食料関連や中小の企業倒産が次々に起きている。地方金融市場も危うい。その経済的負の部分が、しっかりと国民の眼に映し出されていない。
 
東北地方だけで、4万人以上が失業手当の申請をした。雇用保険など社会保障がしっかりしている会社はいいが、契約やパート労働など非正規雇用でからくも生活を維持できていた人々は、その数が把握できていないのが実状だ。生活をつなぐ…ということすらできない人がいる。

まして、復興には、これまでにない時間がかかる。万遍なく均一に、復興の足並みをひとつにすることは、被災の大きさ、被災地間の差異、地域的特色の差などから、ほぼ不可能といってもいいだろう。
 
流動化…という言葉は、単に人の流動性だけをいうのではない。企業活動も、ひとつの拠点において、すべてをまかなうという時代から、ディビジョンや子会社化、系列化という組織的な流動性を生きている。ひとつのディビジョンが滞ると、それだけで、全組織が麻痺する…。組織が相互補完の機能を失い、パーツ化が進んでしまった結果だ。

そのため、足並みがそろわなければ、その分、復興全体がおくれてしまうという現実に、この国の経済は直面した。
 
成熟した資本主義国家で、これだけの甚大な被害を受けた国はないように、また、被害の度合いは、成熟した経済社会であるがゆえに、回復が容易ではないという試練に直面しているのだ。

それはひとり政治の力だけでまかなえるほど、安易なものではない。にもかかわらず、この国は震災以後、かつてのように政治の力だけで、物事は変わるものだ、よくできるはずだという、愚かな幻想にしがみついている。

もはや政治の力に依存した発想で、この難局が乗り越えらえるはずはない。たとえば、業界団体が緊急会議を開き、相互乗り入れの中でできることはないと検討する。あるいは異業種間交流復興会議を持つ。被災自治体と支援自治体だけで、復興会議をつくり、相互補完の中でやれることに取り組む(関西地域連合はすでに着手している)といった、企業連合、自治体連合の形をとり、その力を国政とも連動させるしくみがいる。

仮設住宅の建設が遅れているのも、役割分担形式にこだわり、かつ自治体の範囲内で物事を処理しようとしているからだ。
 
いままであった、規制の垣根、それによって自分たちにある、固定観念という垣根。それをこえる、自由さがいまほど求められているときはない。