秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

可能性を考えるのでなく

人は何事かをやろうとするとき、可能性を考える。
 
考えていないつもりでも、もしうまくいかなかったらどうしよう…という不安を抱えている。しかし、その不安というのは、できるかできないかの可能性に心が縛られているから感じることなのだ。

若いころ、ある先輩に、可能性を考える暇があったら、いまそのために何をしなくてはいけないかを考えろ…と説諭されたことがある。
 
それを考えれば、答えはすぐに出てくる。自分がこうありたい、こうなりたいと思うことのために、今日を生きればいいことだ…。いま、何をするべきなのか。それがわかれば、それをやるしかない。成功するか、しないかなんて、考えても意味のないことだろう…。
 
10代の終わりに聞いたその言葉は、オレをはっとさせた。それまで、迷いなく進んでいた道がふと不安になっていたときだったからだ。それまで思いきれていたことが、思いきれなくなっていた…。

物事を実現する力、状況を変えていく力というのは、実は、そんな単純な思いきりにあるのだとオレは思う。
 
人はかしこい。だから、いろいろと物事を斟酌し、あの人たちはどう感じるだろう、この人たちはどう思うだろう…と余計なことを考える。
 
そればかりか、成長するにつれ、そのかしこさは、小賢しさにも変わる。要領のよさやいい加減さにも変わる。そしていつか、あの目標に向かって、ただ今日を必死に刻もうという努力がみえなくなっていく。努力がみえなくなっていながら、小賢しさやテクニックはあるから、なんとなくやっているような気にもなれる。
 
この国の政治やマスコミのていたらくを見ていると、そのことをふと思う。国民のためとか、国家のためとかいった言葉が、いまあちこちで蔓延しているが、それはどこかで自分たちの責任の所在をあいまいにしているだけに過ぎない。
 
国民のためでも、国家のためでもなく、人として、あなたは何をし、何を実現しなくてはいけないのか…その問いの方が先になくてはいけない。つまりは、自分が考える明日はどういうものなのか、それをどうしても自分は実現したいのだという思いがなくてはいけない。
 
マスコミが政治家、政党に問う言葉も、それに答える政治家の言葉も、国民のために、国家のために、こうしたい、こうありたいの羅列と繰り返しだ。
 
では、その国民のために、国家のためにという基準はどこにあるのか。国民とは何もので、国家とはなにものなのか。それがないから、批判するマスコミにも、応える政治党、政治家にも、どこにも責任ある姿が浮かびあがってこない。これは、政権政党だけでなく、自民を始め野党も全く同じことだ。
 
お行儀のいい、きれいごとで、国民、国家を語るなかれ。周囲や人に、あるいは海外にどう思われるかではなく、人として、自分はいま何をしなければならないかに決死であれ。その言葉と行動があれば、愚かしい対立や浅ましい批判を黙らせ、明日のための今日を確かに刻もうという思い切りが国民にも広がり、国家の矜持として示せる。
 
可能性を考えるのではなく、いま何をなすべきかを考えろ。