へタレと国民主権
昨夜の菅の首相演説。いろいろと批判もあるだろうが、久々、力強い菅を見た…と思ったのはオレだけだろうか。
菅直人に一時期、人気があったのは、へタレががんばっていたからだ…とオレは思う。看板もない、資金もない、人脈もない。あったのは、市川房江という市民運動家と出会い、政策秘書のような真似事をした経験くらいだ。そこから市民運動のホープとなり、市川さんの後継者として政界にデビューした。
だから、多くのアホ左翼やアホ野党と同様、キャンキャン権力に吠える…という稚拙なやり方をやる。だが、薬害エイズ訴訟のときに見られたように、吠え方の器用さと吠えたことは実行するという姿に、市民の共感はあった。つまりは、へタレが懸命にがんばっている…という姿がそこにあったからだ。
基本、政治家になろうという人間にずば抜けて優秀だという人はほとんどいない。とりわけ、この国においてはそうだと思う。その一番はエリート主義をこの国の人がひどく毛嫌いするからだ。
ソクラテスの時代、市民は徳のあるエリートと限られていた。詳細は省くが、治世は限られた知育、徳育、体育に優れたエリート市民によって行われるべきだという考えが基本にあったからだ。その歴史の上に、欧米諸国はある。だから、エリート教育をはばからないし、その教育は日本の学歴神話とは遠く、似ても似つかない。ただ、いい大学に進学できたという受験勉強の能力程度では身につかないし、ついていけない。
もちろん、そこから白人優位主義のバイアスのかかったリーダーが生まれてこなかったわけではないし、エリート主義を勘違いした官僚主義のような輩もいる。が、地域、社会、国、そして世界のあり方について、きちんとした理念を展開し、それが結果的にこれまで世界を牽引するひとつの力になっている。
しかし、日本では戦後民主主義教育によって、教育の平等、教育の機会均等がいわれ、このエリート主義とは真っ向から対立する教育を進めてきた。ずば抜けた人材を育成する教育を捨ててきたのだ。それでいながら、機会均等という名の所得にようる教育格差を容認してきた。
戦前の陸軍士官学校、陸軍大学、あるいは海軍の幼年学校といったものは、欧米並みのエリート教育の場だった。もちろん、そこからエリートとは何かを勘違いした輩も多く輩出し、あの愚かな戦争を導いたという問題はある。しかし、国家が世界とどうかわりを持つべきかという問いを使命としていたことは紛れもない事実だ。
戦後復興の重要なポジションにこうした戦前のエリート教育を受けた人々がいたこともまた、否定できない事実なのだ。
いま、この国にはそうしたエリートはいない。それは戦後教育がそれをつくってこなかったから。もっといえば、国民がそうしたエリートの出現を受けれ入れようとはしなかったから。
答えは極めて単純なのだ。しかし、いま多くの国民が政治家批判、政党批判をする。批判するだけながらいいが、非難するだけで終わっている。
そうではない。ある意味、国民がへタレだから、政治家もへタレなのだ。であれば、市民が政治家を育てるような力をつけなくてはいけない。そして、政治家を市民がコントロールできるようにならなくてはいけない。
国民主権とは、ただ選挙権があることだけをいうのではない。へタレでも政治はやれる…という政治家を育てなくてはいけない。へタレにもっと試練を与え、よりよい政治家に仕立てていかなくてはならない。
国民主権とは、政治家に丸投げして、市民としての、国民としての権利を政治家に反映させることもなく、ただ不満をぶつけることをいうのではない。