秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

見切りがいる。

箱根や東京近郊の観光地や温泉地が閑古鳥だとテレビが伝えている。
 
5月連休まで週末はいっぱいだった個人予約がキャンセルになる。被災地やその周辺企業の団体旅行が中止になる。そうした影響を受けているらしい。
 
計画停電の対策で、ロマンスカーやスカイライナーのような特急の運転が中止されているのが原因でもあるだろうが、それ以上に、いまはそれどころでは…といった気分が一番大きいと思う。
 
AERA緊急増刊号「東日本大震災」には、被災した100人のそのときとこれからの証言のほかに、「識者らしき」人物たちのいまの現況から見えてくる課題や問題点が様々な立場と視点から語られている。しかし、そこに登場する証言、私見は、わずかな一部でしかない。
 
被災した一人ひとりに、そして亡くなった方一人ひとりに、そして、被災を免れた一人ひとりに、それぞれの証言と視点があると思う。
 
いまこの国は、実にあまりに多様な相対的関係を生きている。
 
まず、被災の度合いにおいて地域差がある。個人差もある。原発事故によって、被災とは別に生活権を奪われている人がいる。しかし、その犠牲を払っても原発事故をとめなければ困る人たちがいる。いや、人だけでなく、近隣諸国、あるは原発を運用する諸外国から国がクレームをつけられ、国際的信用を失墜させる。

支援においても、ある地域ではこういう支援をという声があり、ある地域では、まだ支援というより救援に近いサポートを必要としている。支援する側には、実に個別の対応が求められる…という姿がある。

これだけ相対的な関係と価値が林立する中で、オレたちは、どう支援し、この困難をどう生き抜くかを考えなくてはならない…。
 
それは、単に、みんなが一つになるとか、一緒にがんばろうといった言葉では蓋(おお)い切れないものだ。なぜなら、そこには、人間のドロドロした、直情的、直裁な生の感情がむき出しになるからだ。
 
震災とその後への思いが純粋であればあるほど、真摯であればあるほど、そして、現実に自分の手と足と体を使い、現場の諸問題にぶつかっている人ほど、その実感は、きっと深く、そしてつらい。
 
ある人から悩みのメールをもらった。「いまにして、これでよかったのか…と思う」。
疲れているな…と思った。オレは、「どこまでやれば理解されるのか、どこまで理解されるかは、誰にもわからない」と答えた。そして、「無理をしないでください」とも。

人の気持ちを全部理解しよう…。人は、こうしたときほど、そう思う。しかし、オレは、それはできないと確信している。そして、理解できなくいいんじゃないかとも思っている。人が人の気持ちを全部理解できる方がよほど居心地が悪い。
 
これだけ相対的な関係と価値の中では、ひとつになるろうとすること自体に無理がある。一緒にがんばろうとしても限界がある。そういう冷静な見切り方が必要なのではないだろうか。
 
ひとつになろう、一緒にがんばろうは、耳障りのいい言葉だ。だが、オレはその言葉自体には何の真実もないと思っている。オレには、ひとつになろう、一緒にがんばろうが、マスコミや被災しなかった人たちの、免罪符の言葉のように聞こえてしようがない。ドロドロした人間の業に目を背けようとしている言葉にしか聞こえない。
 
あるいは、そうした弱さゆえの言動や叫び、人間の本質を見たくないという言葉にしか聞こえない。
 
人の力は大きいが、きれいな言葉で語られほど、強くも美しもない。よかれと心をつくしても、それが万人に認められるものとは限らない。だから、見切りがいる。それでいいのだという諦めと見切りがいる。
 
その中で、人間のどうしようもない業や我や無分別さと向き合うことで、初めて、実体のある言葉として、それが出てくる。
 
ひとつになろう、一緒にがんばろうは、まだ、この先の向こうにこそ、必要とされる言葉だ。