生活者の痛烈な実感の中で
いうまでもない、それは、民主主義国家においても、独裁国家にとっても、これまで経験したことのない、不具合な制度変更の要求を背景としているからだ。
まず、石油資源という先進国家にとって、重要なエネルギー安全保障の問題が横たわっている。また、アメリカをはじめ、欧米諸国にとって、イスラム圏の安定は軍事における安全保障の問題にもかかわる。欧州諸国では、避難民の増加は、移民政策によって抑圧し、格差を生んている社会問題を噴出させかねない。
独裁政権にとっては、これまで軍事や情報操作によって抑圧し、懐柔できていた市民が政権に敵対するという新しいシチュエーション(シーア派、スンニ派の対立)が革命というレベルにまで達することを想像できていなかった。
つまり、これまで欧米を中心とした先進国家にとっても、また、先進国とうまくやることで政権を維持できた独裁政権にとっても、双方にとって都合のよかった制度やしくみが、市民革命によってその安定性を失ったのだ。
だが、中国を除き、民主主義を標ぼうする先進国家は、それが市民革命であるがゆえに、容易に介入することができない。いわば、歴史上経験したことのない、パラドックスに、この潮流は先進諸国を巻きこんでいる。
しかし、これを市民の側からみれば、欧米諸国のいうグローバルスタンダートが世界唯一の基準ではなく、自分たちには自分たちの基準があるという民族の主張に過ぎない。
欧米諸国の発展を支えるための格差の犠牲になり、独裁者に対しては、政権やその周辺にいる階層だけが極端な豊かさを享受する社会のあり方へのレジスタンス闘争に過ぎない。
そこに東日本大震災が起きた。
いま震災の支援や復興の話題ばかりで人々の目が向いていないが、電子機器部品の生産拠点は北関東、甲信越、東北に集中している。現実に、自動車の生産量は、被災から2週間の間に30万台が製造されていない。
電子機器の制御部品がひとつ生産されないだけで、多くのパーツを必要とする自動車をはじめとする電子機器はすべて生産できない。
つまり、日本経済をささせえている基幹産業がその経済活動をうまくこなせないという状況がすでに起きている。
電力、そして食料を地方、とりわけ北関東、東北に依存してきた東京は、これまでできていた消費活動ができない時代を迎えようとしている。
この震災がもたらした都市と地方のアンバランスな関係、それはいわばこの国が戦後65年それでよしとしてきたアンバランス(格差)だ。しかし、被災した地域を中心に、このアンバランスに気づきを持つ市民が生まれている。
都市部においても、いままでの消費主体としての自分たちの生活のあり方がそれでいいのかという疑問が生まれている。
これまで原発を地方に押し付け、都市の高層マンションでその電力がどこかきているのか。そのキケンをだれが引き受けているのかも考えなかった人々がそれを考え始めている。
政治や政権がつくりあげてきた戦後65年の日本の姿。とりわけ、過去20年の間につくりあげてしまった地方と都市の格差。その現実と問題をこの震災は突き付けた。
中央集権の政治体制と地方を疲弊させる税制度。お上と地方という明治維新につくられた中央集権の官僚体制、それにのっかった政治制度のしくみが実は、いま大きな疑問と否定の対象として浮き上がろうとしている。
それは、政治家や評論家が、あるいは学者が語る言葉としてでなく、歴史上ない大震災とその救助、支援、復興事業の中で、生活者の痛烈な実感の中で、強く、激しく訴え続けている。