秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

サインを読む

北アフリカチュニジアで火がついた民衆運動は、エジプトからイエメン、ヨルダン、バーレーン、そして、リビア、イランの中東へと広がりを見せている。
 
おそらく、東西の冷戦構造が終わったとき以上の、歴史上最大の、地球規模の大転換となる民衆革命となることは間違いない。
 
多くの民衆と治安部隊との攻防で、これまでも多くのいのちが失われ、若い青年たちの血が流れている(エジプトの人口比率は圧倒的に若い世代が多い)。リビア、イランといった強権政権のもとでは、もっと多くのいのちが尊厳もないまま、蹂躙され、多くの人々が流血の中に生きることになるだろう。
 
そこには、デモや闘争の報道の影で、いのちを奪われ、傷つき、泣き叫ぶ母や妻子、兄弟姉妹、老人、家族の姿がある…。
 
いま、この日、この時間、この同じ地球で、自由と平等を求め、支配と隷従の鎖を立つために、いのちの危機や流血にされされている人々がいる。
 
それを思うと、えぐられるように胸が痛む。
 
しかし、有史以来、人類は制度やシステム変更をするために、これまでも多くのいのちを奪い合い、そして流血を繰り返してきた。悲しいことだが、その現実を否定することはできない。
 
今月の始め、月末にやる人権啓発シンポジウムの打ち合わせで、作家の宮崎学と久々に合い、打ち合わせをやった。その折、討論内容について議論するうちに、オレと宮崎氏のミニ討論会になった。
 
差別や偏見は、この世からなくすことは限りなく不可能だ。その論点は同じ。しかし、制度やシステムの変更なくして、不可能を可能に近づける道はないと語るオレに、宮崎氏は、これまでも制度やシステムの変更をしながら、現実に差別や偏見を越えることはできていない。ゆえに、意識のレベルに届く改革をやらなくてはいけないと反論した。
 
宮崎氏にもわかっている。意識改革をやることがいかに膨大なエネルギーとコスト、そして時間を必要とするか。その上で、しかし、制度やシステムは当てにならないという自身の政治運動を通してえた実感から、そういう言葉になった。
 
そのときは、時間がなく語りつくせなかったが、たとえば、革命を一度も経験したことのない日本ですら、意識改革ができたのは、元寇によって、国が一部侵略されたとき、江戸時代末期、黒船という軍艦によって、圧力を受けたとき、そして、アメリカとの戦争によって、完膚なきまでに打ちのめされたとき。
 
いすれも、外部からの暴力によって、やっと制度変更や意識改革をやっている。有史以来、人は、意識改革によって制度変更ができたことはないし、そこには多くの流血といのちの蹂躙があった。
 
もちろん、理想を求めることはいけないことではない。できれば、意識改革によって、自発的、主体的に制度変更を誕生させることができればそれ以上のことはないだろう。
 
しかし、現状を変えるということにおいて、自発的であることに苦手な日本人が意識のみの変革によって、社会や国を変えていくことは途轍もなく難しいことだと思う。その多くが、中途半端な改革や制度変更であるがゆえに、宮崎氏がいうように、理想とする変革には遠く及ばない現実を、また、同時に、多くの日本人が知っている。
 
世の中、生活の中には、サインがある。もっといえば、サイファが潜んでいる。今回の北アフリカ、中東の変化は、ある意味、起こるべくして起こっている。規制の制度、旧来の数式に守られた治世や政治の仕組みに対して、アナーキーにNonと主張する。
 
その動きは、この国の事件、事故のいくつかの中にも実は読み取れるのだ。大衆は愚かだといった政治家がいたが、同時に、大衆は、無意識、無自覚のうちに、犯罪や事件の中で、世界を否定する。
 
犯罪や事件を起こさないまでも、明るい日常の笑顔の下で、疑問や不満を抱えている。そのサインがつながると、北アフリカ、中東のような民衆運動に結実していく。
 
いまの民衆運動が素晴らしいのは、欧米諸国の利害に一致する運動でもあれば、また、欧米諸国に一致しない運動でもあることだ。だれも外野席から手を入れることができない、真の民衆運動がそれをさせている。
 
それは、同時に、欧米先進国の論理が長く地球のスタンダードであったことへの強烈な批評である。
 
日本の愚かな政治家たち、市民は、そのサインをどう読むのか。