秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

すでにそこにあるもの

人は、コミュニケーションはすでにそこに「ある」ものだ、と思っている。
 
あるものだと思うから、互いの意志疎通がうまくいかない、自分の思うことが伝わらない、相手の言っている言葉の意味がわからない、あるいは、わかっていたはずのに、全然違っている…などということが起きる。
 
なぜか。
 
生まれてからいまに至るまで、コミュニケーションというものを意識しないで育ってきたからだ。
 
最低限、自分の欲求感情を伝えられさえすれば、乳幼児、低年齢の子どもたちは、生命を保全することができる。また、母親か、それに代わる育児能力のあるもの、たとえば、おばあちゃんとか、おばさんとか、ごくまれに、育児能力にたけた父親とかがいれば、欲求感情を読み取ることができるからだ。
 
つまりは、おんぶに抱っこの欲求伝達ができれば、当面、意志の疎通に困らない。
 
当然ながら、家族関係や保育園、幼稚園、小学校と進む中で、それだけではない意志疎通のための訓練をすることになる。しかし、この訓練を意図的、意識的にやる環境がどんどん失われている。
 
生活変化の中で、両親と子どもが接する時間が減少していることもあるし、社会が成熟してくると、意志の伝達が短縮化、記号化、暗号化されてくるという社会学的背景もある。
 
ゆえに、オレがHPの評論で連呼しているように、孤衆化が進むし、まったくの他人と複雑な意志疎通を図る面倒なコミュニケーションから撤退していく。同時にそれが、閉鎖性へと人々を導く。
 
大人を含め幼児化、アキバ化が進んでしまった結果、これを突破する生活訓練をまともできる大人が急激に減っていることもあるだろう。
 
限られている人間関係ではそれを打破することはできないし、圧倒的な孤独へと人々を導くしない。だから、実コミュニケーションから撤退しながら、ネット上の仮想コミュニケーションに癒しの場を求めるということが起きる。
 
この構造を逆手にとって、仮想ネットの仕組みを利用しながら、実コミュニケーションに限りなく近づこうとしているのが、Facebookだ。
 
恥の文化ゆえに、匿名性をよしとする日本での普及率は諸外国と比べてまだまだだが、これが世界標準並みに汎用性を増していくのは時間の問題だろうと思っている。
 
しかしながら、それまでには、きっといろいろなトラブルや課題が浮き彫りになる。こうしたコミュニケーションツールは基本、日本人の体質には不向きだからだ。
 
なぜか。いうまでもない、コミュニケーションはそこに「ある」べきものだったからだ。
あうんの呼吸という言葉も、目が物をいうという言葉も、日本人の歴史とある意味、アイデンティティを象徴もしているが、そこにあるのは、「ある」べきものとしての共通認識が前提としてあった。
 
オレはそれを否定しない。この国が戦後65年の中で決定的に喪失した結果、今日の日本の歪な社会を生んでいる背景に、この「ある」べきものとしてあるものの姿が失われていることが最大の要因だと思っているからだ。
 
それを立て直すにはいろいろな方法がある。しかし、戦前のような修身教育をやればそれができるというのは、アホな戦前懐古主義のおやじのいうことだ。そんな簡単なことで、日本の復権があるなら、だれも苦労はしない。
 
市民、大衆の中から、自発的な学習ツールが生まれ、かつそれが、自分たち日本人の歴史文化、生活意識とそう遠くはないのだと認識させる訓練こそ必要。
 
問題はあっても、いまその可能性を秘めている大衆のツールは、Facebookしかない。