パワースポット
4月7日に開催されるイベントのためのレンタル映像視聴のために、RKKのメディア課へ。
東映が今年5月に公開する「ブッタ」の上映に向けて、仏教界に鑑賞協力を要請している。その中で、東京を中心に葬儀関係団体、仏教界がひとつになって、チケットを購入し、無償配布して、それを機会に業界団体の活性化にもつなげようという動きがある。
仕事というより、同じブッティスト仲間の友人への協力だから、制作実費分しかもらわない仕事。インドの映像はRKKなら持っているはずと提案したのは、実はオレ。
数年前に、取材で収録してきたという映像には、インド国境に近い、チベットの釈尊生誕の地、ルンビーニ、悟りを開いたブッタガヤ、最初に教えを伝えた場所、初転輪の地サールナート、そして、ガンジスの朝日…などが映し出されていた。
何度もこうした映像は見ているが、遺跡、足跡は整備され、10年以上前の風情とはずいぶん違っている。インドはヒンドゥ教だが、釈尊の足跡も観光資源として見直されてきたのだろう。それに、この数年の急速な経済成長が遺跡、遺構の改修にお金をかけるゆとりを生んでいるのかもしれない。
いまパワースポットというのが、流行っているらしい。
確かに、人が集い、集まる場所には、その土地や空間が持つ歴史やいわれ、由縁がある。よき縁に恵まれた場所にいけば、どこかすがすがしい気分にもなるし、歴史的に不幸のあった場所などでは、時間が経過しても、残された不幸の無念さがどこかに漂っている。
しかし、エルサレムにせよ、釈尊の歩んだ地にせよ、そこは、もともとすがしき風が吹いていた場所ではない。貧しさ、病苦に人々が生き、女性、子どもたちの人身売買が当然とされたような場所だった。老いては、生きるよすがもなく、物乞いとして生きるしかない場所でもあったのだ。
人々の一条の光たらんする人物を求める心が神を生み、その人々の苦しみを目の当たりにしたとき、現実にそうした人物が登場し、人々を救いの道へと導いた。
パワースポットというのは、だから、決して、ただの清き場所をいうのではない。そこにある思いをどう受け止めるかで、そこはよき場所にも、忌み嫌う場所にもなる。
だが、苦しみの中で多くのいのちが奪われた場所も、多くの人が無念に終わった場所にも、その思いを受け止めて、いま、そして、これからの自分がどうあるべきか、どう生きるべきかを示してくれる教えがある。
それに気づいたとき、その気づきが、自分自身へのパワーとなって、次の道を指し示してくれるのだ。