秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

愛しているとはだれでもいえる

著名ナレータのTさんから、先日の朗読会への出席のお礼のメールをいただく。Tさんらしい、丁寧なお礼文
 
もう20年近く前、ヒューマンドキュメントの作品を毎月制作することになって、自分の文体をきちんと、しかも、しっとりと語ってもらえるナレーターさんを探していた。
 
CMや広告業界では、当時、キレのいい語り口とテンポのいい語りのナレーターさんが多かった。商品紹介や販促関係ともなると、スピード感が求められた。
 
だが、そうした説明的なナレーションではなく、事実を丹念に語れ、かつ、そこに描こうとしている取材対象者の言葉にしない心情やそれを支える周囲の人々の温かな思いを語れる人は少なかった。
 
ある意味、役者の語りのように、自分の文体を語ってくれる才能が欲しかったのだ。Tさんが所属する事務所の音声資料を聞いていて、すぐに耳にとまったのがTさんだった。
 
日本を代表する屈指のナレーターさんだと知ったのは、仕事をするようになってからだった。
 
その後、いくつも仕事をお願いしながら、いまではあうんの呼吸で、収録ができるようになった。それに合わせて、いろいろと個人的な会話も交わすようになっていった。
 
そして、不思議なことに、オレが社会教育や芝居、映画といった作品へシフトを変え、社会貢献事業に関わる仕事をするようになると、Tさんもナレーターという仕事から踏み出し、本来やりたかった朗読という表現へ向かい始めた。
 
おりしも、東京都人権啓発センターが毎年開催していた朗読会に招待され、そこで朗読の魅力を再発見した矢先のことだった。
 
実は、オレの芝居は、独白が多い。映画の社会教育の短編作品でも、いわゆる秀嶋流といわれる、独白を中心に物語が展開する手法をよく使う。
 
そこには、人は、普段の会話の中では、奥深くにある言葉を口にしないという、オレの劇作やシナリオへの信条がある。したしとしても、サイファのように、記号や暗号のように言葉にするか、表情やしぐさでしか表せない。
 
人とはそういうものだと思う。
 
人が自分の深層にある思いをすべて言葉にできれば、心の葛藤もないし、言葉にできない思いに苦しむこともないのだ。心に深く、言葉が醸成し、あふれたダムが決壊するような心情に辿り着かなければ、人は多くを人に語ることなどできないと、オレは思ってる。
 
学んだことが理解できたという人間に、ならば、それを自分の言葉で述べよ、200字以内で語れと注文をつけるのは、それと同じことをいっている。
 
胸に落ちないから、葛藤や苦しみがある。胸に落ちれば、深い思いを込めて、人は初めて、自分の心情を吐露できる。そこまで落ちていないということは、まだ、葛藤が浅いということなのだ。
 
愛の言葉も、人を思う言葉も、あるいは、自分が学びたいと願った学びも、すぐに言葉にできない。そのことの方が実は大切なのだ。なぜなら、そこを生きる時間の濃密さが、人に深い言葉を与えてくれるから。
 
愛しているとは、だれでもいえる。しかし、愛を本当に実践するのは、実は容易ではない。