言葉にしない、言の葉
朝から編集作業。夕刻、著名ナレーターTさんが新しく始めた、<言の葉>という朗読会へ。
<えん>という、小劇場を使い、仲間の著名ナレーターさんや落語家さんなどとやる朗読会もやっていらっしゃるのだが、もっとお客さんと近い距離で、小規模にやれる朗読会を模索されていた。
場所探しには苦労されたようだが、東銀座の歌舞伎座裏手、料理屋風の店の地下にある多目的スペースでの開催。おそらく、40人も入ればいっぱいという小さなスペースだ。
前段に、コミカルで、ふっと心にしみる話をゲストの方と1話ずつ2題。休憩を入れて、メインのTさんの少し長い朗読。演目は、浅田次郎の『オデオン座からの手紙』。
東映配給で劇場公開映画の原作にもなった。
前回の<えん>の朗読会で、やはり、Tさんは浅田次郎の短編を取り上げたのだが、
作家で言葉を大事にしている人の文章はすぐにわかる。とりわけ、浅田次郎のように、市井に生きる、ごく普通の生活の中から、人々が抱く生活の痛みや苦しみ、悩みを拾い上げることに巧みな作家は、言葉がいのちといってもいい。
むろん、ひとつの出来事、ひとつの出会い、ひとつの、目に現れた現象を見て、浅くとらえず、その奥にあるものに気づきがもてたり、違う視点から冷静に俯瞰するということもできているからだ。
そうした深みをTさんは、しっかりと受け止め、言葉に、朗読にしている。それは、Tさんの中に、浅田と同じように、言葉への思いがあるからだろう。
ひとつひとつの言葉を大事にする。それは、実は、簡単なようで、なかなかできない。言霊と昔からいわれるように、言葉には、力がある。よき言葉を使えば、心も清らかになるし、悪しき言葉を使えば、心も汚れる。
使うだけでなく、言葉を投げられた方も、よき言葉であれば、心がやすらぐし、悪しき言葉であれば、心が傷つき、同じように、悪しき言葉が返ってくる。
丁寧で、慎重な言葉がいいといっているのではない。それも大切だろうが、どんな言葉の中にも、愛や思いがこもっていなくてはいけないといっているのだ。いくら丁寧で、やさしい言葉づかいをしても、そこに心がなければ、人には届かないし、かえって、人を傷つけることもある。
というようなことをTさんの朗読会から学んでほしくて、オレは役者を同伴する。
昨夜は、いつもは忙しい悠子が空いていたので、付き合ってもらった。前日、イワの店で長かった髪をカットして、若返ってみえる。
「前髪をつくりたいのっていったら、それくらいなら、揃うように、タダできってあげるから、年末にまたおいでっていってくれたの~」と、少女のような笑顔で、うれしそうにいう。すっかりイワのカットがお気に入りになっている。
女優が外見に気をつかうことは大事。それができてなければ、人の目にさらされる仕事へのプロ意識がない。というようなことをずいぶん前に悠子に話した。それをちゃんと意識している。
だが、それだけではない。女優を続けるためフリーのバイトをやっているが、この不景気で飲食関係も厳しく、ランチの時間の仕事をカットされた。仕事ができても、いまはそれだけで仕事が続けられるわけでもない。
それに、オーディションや舞台、踊りの公演などで、都合のつけられるバイトはなかなかない。そんなとき、ちょっと気分の上がるカットができた。それがきっとうれしかったのだ。
そんな奴の普段は表に出さない気分や感情をセリフの言葉にたくせるようになったら、きっといままでつながっていなかった、自分の思いと表現がつながるときがくるのだが…。
しかし、それは言葉にせず、うれしそうな顔がこいつには一番似合うと心でつぶやきながら、いつか俳優という仕事の中で、その笑顔をつかんで欲しいと思う。
言葉にしない、言の葉も、人にはある。