秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

T社長の戒め

不思議な夢を見た。もう20年も会っていない、前の会社の社長の夢だ。
 
劇団をやりながら、バイトで勤めていた会社にこわれて、芝居を続けることを条件に一時準社員になり、事業所の改革や刷新を断行した経験はあった。だが、大きなビジネスシーンにオレを立てるように育ててくれたのは、そのT社長だった。
 
中学で父親をなくし、高校で母親をなくしている。一年浪人してバイトで金をため、日大に入学し、学費を稼ぐために、バスでのスキーツアーを企画したり、学生相手のビジネスをやった。学生経営者の走りの人だ。当時、マスコミでも話題になった。
 
大学を卒業すると大手自動車メーカーの営業になり、トップレベルの売上げを上げた。姉がやっているアパレル会社の経営がまずくなると、そこを手伝い、独立して自分で六本木にアパレルの店舗を持った。
 
当時、外車に乗るのも大変な時代。さっそうとジャガーを飛ばし、六本木・麻布十番・西麻布を拠点にした、野獣会のメンバーにもなった。
 
野獣会は、若き日の加賀まり子大原麗子堺正章、井上順、レーサーの生沢徹などがおり、後に、芸能界やファッション界、広告業界、音楽界、テレビ界などで著名になる人材やちょっとヤバイ業界の人間の遊び集団だった。
 
アパレルの事業が成功すると、大手電気メーカーにスカウトされ、当時、世に出たばかりのビデオデッキの販売代理店を始める。高額のビデオデッキは、学校の視聴覚教材として導入さていた頃で、学校を中心とした営業をやり、ここでも売上げを上げた。大手メーカーは、こぞって特約店契約を結び、社員も100人を越えていた。
 
それが、経理の横領と実力ある営業マンの独立で、痛手をこうむる。倒産させて、再起した方がという薦めもあったらしいが、少人数で苦境を乗り越えた。その頃、学校の部活動の指導者から、自分の講習をビデオに収録してくれと頼まれる。
 
それを売ってくれという部活の教師たちがいた。ハードは低廉化が始まっていた。これからはソフト産業だと、スポーツ指導用ビデオを国内初で取り組んだ。その頃、オレは入社した。
 
オレが入社した途端、企業のVPやCMの仕事まで社長はとってくるようになった。制作マンは、オレひとり。野球でいう千本ノックの日々だった。大手企業の重役や中堅企業の社長、JCの青年実業家たちの中に放り込まれ、仕事をやらされた。毎日が戦だった。
 
新しい事業の取り組みは、必ず担当させられ、ほぼ毎週のように社長と飲み、仕事や会社の未来を語り、対立も喧嘩もした。
 
厳しい人だったが、筋の通った話には耳を傾けた。売上げ重視の成果主義者だから、冷徹な一面もあったが、困難を突破するためには、苦労する社員のサポートとバックアップは惜しまなかった。
 
T社長でなかったなら、わずか五年ほどとはいえ、オレはサラリーマンを経験することはなかった。東宝から帝劇の芝居に誘われて、断わることもしなかった。
 
映像と出版事業との提携を出版社に勤める友人と画策し、そこの社長と面談させると、遠慮も深謀もいらないのに、本当に低姿勢で、部下のオレが歯がゆくなるくらい、接待役に徹した。
 
強引でありながら、謙虚。似粥を飲まなくてはいけないところでは、あえて似粥を飲む人だった。悔しさは、売上げを上げることのバネにした。
 
そうした積み上げた会社を最近、大手の会社に売った。しっかり実益はとる人だ。
 
夢から覚めて、あれほど必死に働いた五年はなかったなと思う。
 
必死さの足りない俺への戒めの夢か。