秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

身の丈を越えない

昨日から日曜日まで、麻布十番納涼祭りだが…。昨年は、50万人もの人手だったらしい。
 
六本木界隈にヒルズができ、にわかセレブが登場し、ブランドショップが並ぶ。その一方、ハイセンスで、かつての文化情報発信基地だった町は、まるで新宿歌舞伎町のようになってしまった。
 
キャバや外人ストリップバーの客引き黒人、お水レディの列が駅周辺に並ぶ。それをかいくぐって歩くには、まともな女性なら不安を覚えるはず。
 
ミッドタウンはできたものの、そこは、まるでニューヨーク・マンハッタンのミニチュア。ここにも、にわかセレブがマンションに陣取る。一時は人で溢れていたが、いまは、国立新美術館への人通りの方がはるかに多い。
 
バー、クラブ、カフェ、高級レストラン…。芸能人、タレント、芸能プロダクション関係者の通う店…。
 
どこもかしこも軽薄で薄っぺらい、セレブの匂い、勝ち組の都市開発…。それは、「まがい物」の香りがする。
 
人々の生活と結びつかない、地域に根づかない都市開発の象徴がいま、六本木界隈の姿に現れているのだ。
 
十番の納涼祭りは、かつて、そこそこの人手とにぎわいだった。
 
出店の人、店舗の人と客が、たわいもない会話を交わしながら、買い物や散策を楽しめた。落ち着いていた。それが魅力だった。
 
それが、いまでは、歩くのにも苦労するようになり、出店のオヤジさんや兄ちゃん、おばさんたちとバカをいうゆとりもなくなってしまった。
 
軽薄さに飽きた人が、都心の一等地の影にあった下町のにおいに群がる。だが、それによって、下町のにおいが軽薄さにかき消されていく。売上げがあがれば、地元の人は潤う。そのために、賑わいが必要なことを否定はしない。
 
しかし、過分になることで、失われるものは多い。
 
大阪弁の下町言葉で、「儲かってまっか?」「ぼちぼちでっせ」という商人の言葉がある。大阪では、それが「儲かるほどではないが、これでよしとするしかないでしょう」という表現になる。
 
儲け過ぎでもいけない、だが、儲けなくてはいけない。そこそこのところが、商売のいい塩梅だということをよく表現した言葉だと思う。息ながく商売を続ける極意がある。
 
それは、商売が人と人のつながりで成り立っていることを、大阪商人がよく知っていたからだ。繁忙すぎると大切な客とのたわいもない会話がなくなる。商人としての気遣いも薄くなる。一時期はよくても、結果的にそれは大事な客を失うことになる。
 
身の丈にあった商売のやり方、身の丈にあった地域のあり方、そして、身の丈に合った社会のあり方がある。
 
その基本にあるのは、客、地域の人、店の従業員、仕入れ先、得意先など、店を取り囲む多くの人を大事にするということだ。地域をつくる人を大事にすることだ。
 
不利不足なく、が、しかし、過分にならず、いま与えられた生活をありがたいと感謝できなければ、もっともっとと欲が出る。相手のへの不満になる。
 
欲が出ることで、損得で客、地域の人、店の従業員など、店を取り囲む多くの人を見るようになる。地域のためにという利他の心が失われる。意識しなくても、そういう癖がつく。そして、思い通りにならないことを不満に思う。
 
それでは、店、地域に集う人のだれも楽しめない。楽しめなくなるから、金を落とさなくなる。落とすとしてもわずかになる。
 
現実に、麻布十番祭り、人手は増えたが、その増えた数に見合うだけの売上げになっていないと聞いた。数が増えれば、当然、売上げは上がる。上がったものの、それは、来客数に見合っていない。金を落とさないで、物見遊山で帰っていく人が多いからだ。
 
これも身の丈を越えた人が一気に集まるようになったため。何事も己を知り、身の丈にあった姿が、そこに生きる人も集まる人にっても、心がなごむ、落ち着く。
 
本当は、だれもがそうした人と人のつながりを求めている、