秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

花火の夜のひとりごと

昨夜は神宮の花火大会。
 
すぐ近くの花火大会なのに、見たのは2度。乃木坂の袋小路になっている道路からは、かつて、花火を見ることができた。
 
だが、いま、そこにマンションが建ち、花火は見えなくなってしまった。
 
偶然、それを知って見たのが1度。もう1度は、はーとイン乃木坂の屋上のビヤガーデンで鑑賞した。
 
前のマンションにいた頃、同じマンションにあるクラッシック音楽事務所で働いているFさんが、同伴予定の人が急遽、来られなくなったというので、行かない?と声をかけられたのだ。Fさんとはハンナで知り合った。
 
近隣のマンション住人からの苦情で、これもいまはなくなっている。
 
それ以外は、ほとんど仕事とぶつかっている。夜まで、杉並で編集作業をやり、その仕事帰りに、よく神宮の花火大会の人ごみとぶつかった。
 
10年程前まではそうでもなかったが、いつのまにか、人が増え、いまは交通規制、道路規制で、この日、青山は大変な渋滞になる。
 
花火は好きだが、もともと、人ごみが嫌いで、人いきれと暑さの中で鑑賞する花火大会には、あまり魅力を感じない。といって、どこかの高層マンションや見晴らしのいいバーやレストランで、それを見たいとも思わない。
 
飲食をしながらだと、どうしても花火から気が散る。それでは花火大会に行く意味がない。それも花火が好きだからだ。花火という演者に失礼な気がしてまうのだ。
 
花火は演劇に似ている。
 
演劇の一回性と同じ。たった一度しか、同じものを目にすることができない。鑑賞する観客と花火を仕込み、打ち上げる花火師との一期一会のパフォーマンスの共有。
そこが、演劇と同じなのだ。
 
それは同時に人の一生ともつながる。わずか一瞬で散ってしまう花火。大輪の花を咲かせ、いのちを終える。
 
人には、長い人生の中で、その人がもっとも輝いてる一瞬というのがある。人は、その一瞬のおかげで、長い人生を生き抜くことができる。
 
そのいのちが短いか、長いかは人によって違うが、その人がこの世に生を受けた意味や役割りを果たした、そのおつりとして、その後の人生があるような気がしている。
 
オレたち世代の中には、数年後の退職を考え、老後の準備に余念のない人も多いだろう。自分が輝いていたのは、もっと若い、あの頃だったとふと思う人もいるかもしれない。
 
これからの時間より、いままでの時間の方が長かったと実感するようになると、人はふとそう思う。オレ自身、いまより遥かに忙しかった10年以上前の仕事やそこでの人とのかかわりを振り返ることもある。そして、自分が人生でやれることの多くは、もうやってしまったのだろうか…と、考えることもある。
 
だが、おつりの人生で人は、決して満足して生きられはしないのだ。
 
「いい大人だけど、精神年齢は小学校の三年生じゃない」。姫はオレのことをそういう。いろいろな意味で、そうだと思う。
 
しっかりしてなくては…。そう思える人生を生きていることは、やはり、やり残した人生がオレにはあるということなのだ。
 
進まない原稿を前に、落ち込みながら、そう思う。