青山村の仙人
オレは仙人ではない。が、俗世を離れて、霞をくってるような仙人っぽくみえるらしい。
外見がではなく、仕事をしている様子がみえないらしいのだ。
おそらく、秀嶋組を含め、オレのまわりにいる大半の人間は、オレが企画を練っていたり、原稿に向かっていたり、打ち合わせをやっていたり、社長っぽいことをやっていたりという姿を見たことがない。
かなり、オレの濃密な脳の思考の近いところで仕事をする、秀嶋組の連中ですら、映画や映像の制作という限定されたオレの一部としか接していないし、部屋でひとり、悶々としている姿やクライアントに、いいたいことはいいつつも、気を遣っている姿など、現場とはまるで違うオレの姿を見たことはないのだ。
だから、ラグビーの負けない早稲田ではないが、負けない秀嶋の強さの秘密がわからない。
普段、下ネタばかり飛ばしているオレが、どうして著名な学者や研究者、識者と交流が深いのかが、わからない。ちゃらい服装なのに、きちんとネクタイをしたビジネスマンや政治家、NPO、宗教関係者と仲がいいのか、わからない。どんなにえらい肩書きや有名人を見ても、ビビらない理由もわからない。
人は働くという姿に、ひとつの固定観念がある。朝、何時に家を出て、満員電車の中でイライラしながら、何時までに会社につき、朝礼をやって、仕事に入る。事務職であれば、PCに向かい、営業職であれば、資料を持って外に飛び出す。製造業や職人であれば、その日の工程表に従って、マシンに向かい、あるいは道具に向かう。
働くという姿が、ビジュアル化できるものを、人は働いていると思い込む。会議好きなのも、それ。
しかし、実は、ビジュアル化できる、「働く」という姿は、単に、仕事の作業としてやる、「形(かた)」に過ぎない。手や身体は、働くという形をとりながら、人は、脳の中で実は仕事をしている。
多くの人とオレのようなタイプの人間との違いは、多くの人は、形をきちんとやるために脳を使い、オレのようなタイプの人間は、同じように脳を使いながら、形そのもの、原型をつくろうとしている。
つくろうとしているもの基本が違うから、そうではない人からみると、オレは働いているように見えない。
もうひとつは、ナニをしている人がよくわからない。
あるときは、青山村やコレド、ハンナといた徒歩500メートル圏内で飲んだくれ、下ネタを飛ばしているかと思ったら、日本国に檄を飛ばし、若い奴を説教し、団塊世代に噛み付いている。
クライアントからは、社長と呼ばれ、撮影現場では監督と呼ばれるが、広告代理店ではプランナーと呼ばれる。イベントの仕事ではプロデューサーと呼ばれ、自治体の仕事では、コンサルの先生と呼ばれた。
独立してから、いつも困るのは名刺の肩書き。書類の欄の「事業内容」の項目。どれもひとつではない。
映画もつくれば、社会教育や人権啓発のDVDもつくる。監督であり、脚本家であり、舞台演出家であり、戯曲も書く。
かつては、企業の販促からCMまでやっていたし、著名なアスリートを使って、スポーツ指導用の作品もつくっていた。が、しかし。性や情念を描く、際どい作品もつくったし、評論も書く。まじめな教育シンポも主宰する。
ということで、こいつナニもの? と、多くの人は思うことになる。
それでますます、仕事の形(かた)がみえなくなる。オレにとって、仕事の形(かた)は、あまり意味をなさない。大事なのは、スタイルそのものをつくることなのだが、それが、この国ではなかなか理解されない。
結果、ま、とりあえず、わかりやすいから、カントクということにしている。だが、おそらく、周囲は、漢字で書く、監督というイメージだろう。オレのそれは、あくまで、カントクなのだ。つまり、あえて、肩書きを自分でゆるくしている。
が、しかし。実は、多くの人々も同じなのだ。前にも書いたが、私はナニ者である、という社会通念としてある存在規定は、本来、どこにも根拠がない。サラリーマンやOLをやりながら、オレは、私は、そうじゃないと心の中でつぶやいている奴はたくさんいる。サービス業をやりながら、ふざけんじゃねぇぞと心の奥で叫んでいる奴は、いっぱいいるのだ。
つぶやきも、叫びも、社会通念としてある存在規定の中に、自己の実体がないことを直感しているからだ。直感しているから、生涯、その会社で働き、入社した会社で骨を埋めようと考える若い奴らが減っている。
では、実体にたどりつくにはどうしたらいいのか。
結論。そんなことはムリ。実体は現実社会の中で、ほとんど得られないと考える方が、いまの世の中、よほど正しく生きられる。自殺をすることも、人を殺めることもしなくてすむ。人を貶めたり、卑しめたりしなくてすむ。現実の価値を認めなければ、その価値に一喜一憂しなくてすむからだ。
だが、その境地に簡単に飛びついてはいけない。
その境地にたどり着くには、終りなき日常を丹念に生きるしかないのだ。自分の脳の世界と現実世界の齟齬を承知で、現実世界を無効にするのではなく、きちんと向き合い、○○ではないという現実をひしひしと、痛みと孤独の中で味合うことだ。
その先に、やっと、それ、ムリという境地にたどり着ける。そうなれば、あなたも仙人になれる。
ということで、仙人は、この数日、自主作品のオフライン編集でひきこもり。
外見がではなく、仕事をしている様子がみえないらしいのだ。
おそらく、秀嶋組を含め、オレのまわりにいる大半の人間は、オレが企画を練っていたり、原稿に向かっていたり、打ち合わせをやっていたり、社長っぽいことをやっていたりという姿を見たことがない。
かなり、オレの濃密な脳の思考の近いところで仕事をする、秀嶋組の連中ですら、映画や映像の制作という限定されたオレの一部としか接していないし、部屋でひとり、悶々としている姿やクライアントに、いいたいことはいいつつも、気を遣っている姿など、現場とはまるで違うオレの姿を見たことはないのだ。
だから、ラグビーの負けない早稲田ではないが、負けない秀嶋の強さの秘密がわからない。
普段、下ネタばかり飛ばしているオレが、どうして著名な学者や研究者、識者と交流が深いのかが、わからない。ちゃらい服装なのに、きちんとネクタイをしたビジネスマンや政治家、NPO、宗教関係者と仲がいいのか、わからない。どんなにえらい肩書きや有名人を見ても、ビビらない理由もわからない。
人は働くという姿に、ひとつの固定観念がある。朝、何時に家を出て、満員電車の中でイライラしながら、何時までに会社につき、朝礼をやって、仕事に入る。事務職であれば、PCに向かい、営業職であれば、資料を持って外に飛び出す。製造業や職人であれば、その日の工程表に従って、マシンに向かい、あるいは道具に向かう。
働くという姿が、ビジュアル化できるものを、人は働いていると思い込む。会議好きなのも、それ。
しかし、実は、ビジュアル化できる、「働く」という姿は、単に、仕事の作業としてやる、「形(かた)」に過ぎない。手や身体は、働くという形をとりながら、人は、脳の中で実は仕事をしている。
多くの人とオレのようなタイプの人間との違いは、多くの人は、形をきちんとやるために脳を使い、オレのようなタイプの人間は、同じように脳を使いながら、形そのもの、原型をつくろうとしている。
つくろうとしているもの基本が違うから、そうではない人からみると、オレは働いているように見えない。
もうひとつは、ナニをしている人がよくわからない。
あるときは、青山村やコレド、ハンナといた徒歩500メートル圏内で飲んだくれ、下ネタを飛ばしているかと思ったら、日本国に檄を飛ばし、若い奴を説教し、団塊世代に噛み付いている。
クライアントからは、社長と呼ばれ、撮影現場では監督と呼ばれるが、広告代理店ではプランナーと呼ばれる。イベントの仕事ではプロデューサーと呼ばれ、自治体の仕事では、コンサルの先生と呼ばれた。
独立してから、いつも困るのは名刺の肩書き。書類の欄の「事業内容」の項目。どれもひとつではない。
映画もつくれば、社会教育や人権啓発のDVDもつくる。監督であり、脚本家であり、舞台演出家であり、戯曲も書く。
かつては、企業の販促からCMまでやっていたし、著名なアスリートを使って、スポーツ指導用の作品もつくっていた。が、しかし。性や情念を描く、際どい作品もつくったし、評論も書く。まじめな教育シンポも主宰する。
ということで、こいつナニもの? と、多くの人は思うことになる。
それでますます、仕事の形(かた)がみえなくなる。オレにとって、仕事の形(かた)は、あまり意味をなさない。大事なのは、スタイルそのものをつくることなのだが、それが、この国ではなかなか理解されない。
結果、ま、とりあえず、わかりやすいから、カントクということにしている。だが、おそらく、周囲は、漢字で書く、監督というイメージだろう。オレのそれは、あくまで、カントクなのだ。つまり、あえて、肩書きを自分でゆるくしている。
が、しかし。実は、多くの人々も同じなのだ。前にも書いたが、私はナニ者である、という社会通念としてある存在規定は、本来、どこにも根拠がない。サラリーマンやOLをやりながら、オレは、私は、そうじゃないと心の中でつぶやいている奴はたくさんいる。サービス業をやりながら、ふざけんじゃねぇぞと心の奥で叫んでいる奴は、いっぱいいるのだ。
つぶやきも、叫びも、社会通念としてある存在規定の中に、自己の実体がないことを直感しているからだ。直感しているから、生涯、その会社で働き、入社した会社で骨を埋めようと考える若い奴らが減っている。
では、実体にたどりつくにはどうしたらいいのか。
結論。そんなことはムリ。実体は現実社会の中で、ほとんど得られないと考える方が、いまの世の中、よほど正しく生きられる。自殺をすることも、人を殺めることもしなくてすむ。人を貶めたり、卑しめたりしなくてすむ。現実の価値を認めなければ、その価値に一喜一憂しなくてすむからだ。
だが、その境地に簡単に飛びついてはいけない。
その境地にたどり着くには、終りなき日常を丹念に生きるしかないのだ。自分の脳の世界と現実世界の齟齬を承知で、現実世界を無効にするのではなく、きちんと向き合い、○○ではないという現実をひしひしと、痛みと孤独の中で味合うことだ。
その先に、やっと、それ、ムリという境地にたどり着ける。そうなれば、あなたも仙人になれる。
ということで、仙人は、この数日、自主作品のオフライン編集でひきこもり。