秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

美しさとは何か

香盤表を二枚書き上げたところで、携帯が鳴る。加圧トレーナーで、村娘のRさんからのお出迎え連絡。

青山村の話、村長の話で盛り上がって、うちのビルの下の階でインテリアデザイナーをやっているCさんと京女優のKさんをRedに誘ったとき、あいにくの都合だったので、改めて、青山村に誘っていた。

村民Rと最初、メールにはあったのだが、ケタケタ笑う筋トレ大好き娘は、村民や村人でなく、段々畑の畦道を駆け上がり、村の鎮守様の石段を2段ずつ飛び越えて筋肉鍛える、じゃりんこちえ的元気な村娘だろうと、勝手に命名

その村娘、酒は飲めない上に、加圧トレーニング用の器具があるから、いつも移動は車。「村長はえらいからといって、後部席には乗らないでくださいね。だって、運転手になっちゃうから」。とその前にメールをくれていたが、お出迎えしてもらい、帰りは近いのに、送ってもらい。それはそれは楽チン。まさに、まるで村長気分(爆)。

なにやら、いろいろと思うところもあり、考えるところもあり、自問するところもありの日々らしく、筋肉を鍛えるばかりでなく、知的で、確かななにかを探してる最中の村娘。質問攻めに合いながら、説教ではなく、説諭する。

人が美しくあるということがどういうことなのか。美しく生きるとはどういうことなのか。仕事柄だろうが、それを自問し続けているから、オレのHPにあるワークショップレポートを読んで、世阿弥を学ぼうと思ってくれたのだなと、話を聴きながら、改めて思う。

多くの人が、自分が生きて行く上での指針が欲しいと思っている。確かな人の出会いやつながりが欲しいと願っている。そして、その人と人とのつながりの中で、自分も他者も心地よく、美しく生きられたら、どんなにかステキだろうと思っている。

しかし、いまの時代、いまの世の中、その指針が判然としない。確かな出会いや人とのつながりに不信と不安がある。自分はこうではないかという指針や人とのつながりが、実にもろく、簡単に失われるもだということをよく知っている。

だから、とりあえず、人の流れ、時代の乗り、波に乗っておくのがかしこい生き方なのだろうと、トレンド的人生を、つまりは判で捺したような同じ生活を生きる。

途中、婚活の話題にもなったのだが、一部の連中は知っているが、オレは婚活全面否定派だ。

その理由のひとつは、男女が出会い、心を通わせ、信頼と絆を結ぶという、ある意味、人間が生きる上でもっとも大切な出会いをビジネスとして利用することへの憤りだ。結婚相談所や出会い系といったものも同じだが、人と出会えないという寂しさや孤独といった、人間の心の一番、弱いところに訴えて、それを商売とするやり方が気に入らない。

また、そうした集いに参加しないと乗り遅れているのではないかと参加し、異性に対するはっきりしたビジョンもなく、ただ、かっこいい男子、かわいい女子に出会えればいいという安直さも問題だし、外見や職業、学歴、収入といった属性によって異性を品定めすることを当然とする考え方が大勢を占めていく危さも問題なのだ。

そいつらは、もしそこで結ばれたとして、自分たちの出会いを子どもたちに自慢げに誇らしげに語れるのか。親として、子に、人の愛について語れるのか。

もっといえば、では、いまトレンドになっている婚活パーティや合コンに参加できる人間はどういう人間なのか。きまっている、都会的で、若くて、元気で、美しげな健常者ばかりではないか。他人とうまくやれない奴、コミュニケーション弱者といわれる奴、あるいは身障者や知的障害者は、そこに参加できるのか。

本来、人と人との出会いを演出するならば、それは自発的で、利他的でなくてはならない。だれかが仕掛けてビジネスとするのではなく、心ある人々が無償の行為として、提供すべきものだ。オレが子どもの頃なら、そんなことで儲かっている奴らがいたら、非難轟々の世界だった。

もちろん、地域から共同体が失われ、近所や親戚の世話焼きおばさんやおじさん、にいちゃんたちがいなくなってしまったことに最大の問題がある。それを補完する形で、ビジネスチャンスが生まれ、婚活は、ブームになり、トレンドになった。だから、悪しき側面ばかりでないのは、オレだって重々わかっている。

が、しかし。原理原則を語る奴がいないから、あえて、全面否定から入って、原理原則をわからせようとしている。もちろん、そんな言葉は若い奴らには、60近いオヤジの時代錯誤と映るだろう。だが、それでも男女が出会うことの意味深さ、男と女の美しい出会いのあり方を語らなくてはならない。

なぜなら、そこから家庭が生まれ、地域が育まれ、社会が形づくられ、この国の質と格式を決めるからだ。

若い奴らにそんな意識はないだろうが、いま、自分が異性とどう出会い、どう愛を育み、それを誇りを持って子どもたちに語れるようになるかどうかで、この国のあり様も決まるのだ。

それに気づけば、美しくあるということがどういうことなのか、美しく生きるということがどういうことなのか、おのずと見えてくる。