秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

思いを伝える

移転の案内状を送る。

昨今は、宛名をシールで打ち出し、郵便物を送るところが多いが、オレは、それが好きではない。ハガキや封書を送るときは、宛名だけは手書きにしている。しかも、筆ペン。

字がうまいからではない。字は子どもの頃から「かなくぎ流」。字の下手さには、子どもの頃からコンプレックスがあった。だから、ワープロが出現したときは、一番に飛びついた。

オレが子どもの頃は、基本、勉強のできる女子は、字が上手だった。それが、オレのコンプレックスにッ拍車をかけた。

小学生の頃、書道の習字教室に姉といっしょにいったが、3日ともたなかった。自分の下手さ加減を突きつけられる時間に耐えられなかったのだ。

芝居をやっている頃は、まだワープロがなかったから、手書きだったが、オレの殴り書きの原稿を読みこなすことができると、一人前の劇団員といった調子。セリフが溢れてくると、書きなぐるくせがある。内々の原稿だから、校正もしない。それでも、当時の芝居仲間は、オレの原稿の誤字脱字を想像力で補って、読み下してくれた。また、それを楽しんでくれていたと思う。

清書して、台本にするのに、ずいぶん迷惑をかけた。そのくせで、PCで原稿を書くようになっても、誤字脱字が絶えない。このブログもそうだ。思いのたけを書いたら、それで気分が終わってしまう悪く癖。さすがに、仕事では気をつけているが。

そんなオレが、あえて下手な毛筆にこだわっているのは、理由がある。筆で書いていると、下手でも丁寧に書こうという気になる。いや、下手だからこそ、そう思う。これがボールペンやサインペンだと、そうは思えない。

字の下手な奴は、筆圧が強い。それが書きなぐるような文字にもなる。昔、鉛筆書きで原稿を書いている頃は、本を書き上げると右手が上がらないほどだった。それくらい、興に乗ると、力が入る。オレが身体で原稿を書くと、たとえるのは、そのことだ。

それが、毛筆や万年筆だと力加減がいる。そこに、また違う集中力が生まれる。集中すると、不思議に、書いている宛名の相手の顔が浮ぶ。書きながら、自分の思いが少しでも伝わればという、願いが生まれてくる。

長い文章で、それを根気よく続けるのは、オレのような筆圧の強い人間には、大変だが、宛名くらいならできる。それで、筆ペンにこだわっている。

人は、時間の無駄だという。宛名書きに時間をとられるくらいなら、別の仕事ができる。そうやって、ワープロも、一太郎も、ワードも登場した。確かに。オレ自身、そうしたものが登場したことで、原稿書きのペースが驚異的に速くなった。

だが、どこかで、筆や万年筆にこだわり続けるというもの大事ではないかと思う。上手に書けなくてもいい。「便り」というのは、思いを伝えることだ。そこに、自分の思いの証明のようなものがあってもいいのではないだろうか。

だからといって、こちらの思いが伝わるかどうかはわからない。下手な筆字だと思われるかもしれない。しかし、どうして筆字なのだと、心にひっかかることはできる。と、オレは信じている。

人になにがしか思いを伝えるというのは、実は、そんなところにあるような気がしている。