秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

たんぽぽの種子

自分の言葉や行動を<引き受ける>ということができない人が増えている。

何がしか、他人に示唆的な言葉や行動を起こし、少なからず影響を与えながら、自分のそれに最後まで責任を持つというのには、覚悟と矜持がいる。ぶれない確かさがいる。

しかしながら、覚悟や矜持などと四六時中いっていたら、息がつまる。そこで言葉の軽さや行動のいい加減さも、生きる上では、必要と納得する。言葉や行動に重きを置かない、身の処し方の方が、お互いさま、楽だということになる。確かに。

ところが、それが、また、言葉や行動の意味をますます軽くし、軽い言葉と行動が生活の常識のようになっていく。傷つくのがこわくて、深く踏み込まず、かといって、満足しているわけでもなく、どちからというと他人との関係に不満がありながら、何とないノリで、だらだらと軽い関係という不満を生きる。

どうもそういう人間が増えているような気がするのは、オレだけだろうか。

確かなものが欲しいと口ではいってみても、生活を透かしてみれば、実に薄っぺらに人との関係を生きるいる人が多い。価値ある関係を生きる努力をすればいいのに、鼻からしない人間もいれば、実践しようとしても、結局、元の木阿弥。大した自己改革も他人との関係も変えられず、同じ場所に立ち戻ってしまう人がいる。

とかく、人は身勝手で、自分の都合のいいようにしか立ちまわれない。

しかし、脳科学的にいえば、それでは脳の成長も活性化もとまる。なぜなら、楽ばかりでは、視野の変化が生まれないからだ。脳の活性化に必要なのは、身体的にいえば、視野、視界の広さがどれだけあるかにかかっている。

脳科学でいう、空間認識といわれる能力だ。身体的にも精神的にも、自分の置かれている位置や状況を正確に把握できているかどうかで、問題解決のための情報と、それに基づく解決能力が鍛えられる。

船舶免許や航空免許の基本は、緯度経度の現在地をどう見つけ出すかにある。自分がいま地球上のどの位置に、どの方向に向かって航行、飛行しているかがわからなければ、次の行動は取りようがない。敵の座標を知ることも、目的地の位置も知ることはできないからだ。

自分の位置という基軸を持つためには、だから、他人との関係において、確かといえる基軸を持たなくてはならない。それがなければ、他人の意志によって、自分という根拠が流される。流されることで、自分を見失う。

一見、都合よく、うまく立ち回って生きているようで、実は、たんぽぽの種のように、風のおもむくまま、浮遊するだけの生活ということになる。

人は、イチローはすごいという。あるいは、イチローのようになりたいと考える。しかし、自分の潜在的な能力や可能性を、イチローのように開花させようと努力できる人は、わずかしかいない。だから、それは、自分たちには、手に届かない、天才だからだと結論づける。

だが、果たしてそうなのか。イチローにはなれないまでも、イチローから学べることはたくさんある。天才だからと学びの対象からはずすのではなく、自分にも学べる知恵や努力の仕方があるのではないかと考えられれば、そのときから、イチローは、その人にとって天才ではなくなる。

つまり、自分の可能性を拓くということができる。しかしながら、イチローを手の届かない天才としか読めない狭い視野では、その可能性を拓くということすらできないのだ。

実は、イチローがバッターボックスに立って、いつもするポーズ。これは、脳科学でいう空間認識。だから、イチローが成績がふるわないとき、このポースが並行のバランスを失っている。力みや気負い、不安といったものが心を崩し、身体的な姿勢まで崩す。だから、打てなくなる。

しかし、普段、毎日同じことを繰り返す中で、磨かれた基軸、基本のスタイルがあるから、ぶれても、それを修正できる。これは、松坂やダルビッシュ石川遼なども同じだ。

つまり、普段から、たんぽぽのように風のおもむくままにはならないという訓練の繰り返しで、それを自分の生き方の形にしているからできること。

民主党を選択しながら、小沢問題ごときでぶれる人間も、愛を求めるといいながら、軽薄な男女関係をどこかでよしとする心も、同じ根っ子が生んでいる。

もちろん、風のおもむくままに流され、落ちた場所で根を張り、芽を出し、花を咲かせるということではできるかもしれない。

しかし、コンクリートばかりのいまの都会で、自分を育っててくれるいい土とは、奇跡ともいえる偶然でなければ出会えない。