秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

引越し日が決まる。今月30日。

あれこれ悩んだり、考えたりしたが、結局、月内に、お隣のマンションへ移転する。ぼちぼち始めた荷造りで、昨日までに出た廃棄物はゴミ袋30個分。最終的には、40個以上になりそう。オレの部屋には、集積所待ちのゴミ袋が、出入り口から行列をつくっている。

整理整頓、きれい好きの基準は、物が捨てられるか、捨てられないか。思い切りよく物を捨てないと、物事は片付かない。幼い頃から、物を大事にしろと育てられ、無駄使いや物を粗末にすると、必ず自責の念にかられる。

でいながら、こうして12年間の片付けをしていると、ずいぶん余計なものも購入していたのだと気づく。
簡素、質素を旨とする生き方をしなければと、袋が増える度に反省。

人は、気づかぬうちに余剰な物を身にまとう。それは、ときとして、見栄であったり、体裁であったり。あるいは、社会的な評価や地位への執着であったり、異性や家族への執着であったり。

それが、いらぬものまで必要にさせ、足るを知るということを忘れさせる。いまこうして生きてあることへの感謝や感動をふと見失い、もっと、もっとと欲深くなり、その欲深さが、余剰なものとなって、心に、そして身体に現われる。

そうしたことがわかっていたとしても、こうして片付けをしてみれば、オレ自身、余剰なものをいかに身にまとっていたかがわかる。質素、簡素というのは、言葉は簡単だが、実際にそれを生きようとすれば、容易なことではない。

戦争を知らない子どもたちは、こんなものだ。なのに、それができていない若い奴を説教してられる立場なのか、などと、またまた、反省をしたりする。

が、しかし。だからといって、自分のあり方を振りかえれないのもいかがなものか。事なく、無難に人生を生きることも容易ではないが、自分の足りなさに何度もぶつかり、心をみつめることこそ、人を成長させ、前へ進める力なら、過ちや間違いの中で、得られるものもあるはず、などと自分に言い訳をする。

昨日、引越しの最終報告をしようと、相模原のかみさんを事務所に呼んだ。オレのそんな思いはすっかりお見通しで、隣のマンションに移転する前提で、鼻から話をしている。オレが、過ちや間違いの中でしか、人生を生きられない男だということが、わかってる。

何を選択するにしても、次をがんばるしかない。奴はいつも前向きだ。

昨日、Redがランチを再開した。しかし、超寒い上に、雨模様。初日に客は少ないのではないかと、かみさんを連れていく。息子は、もう2度も顔を出しているが、かみさんは、初。オレの気持ちを察してくれた、かみさんへのささやかな礼。ランチ再開、第一号の客になる。

飲むときには、ほとんどメシをしないオレだが、改めてYOUのバーガーを食うとうまい! そういえば、オレは、まともにバーガーを食ったためしがなかった。プレーンでスープ付き、700円は安い!

Redへ向かう途中、近くの著名蕎麦屋の女将さんと会う。オレの行き着けの歯科医を紹介してから、会話を交わすようになった。オレの本を三冊も買ってくれている。ハンナのばばあのダチ。赤坂本店の創業者の次女で、育ちがいい方。「おでかけですか?」と声をかける、その物腰に、どこか品がある。

午後には、いまのマンションの管理会社のTさんが、出る前に顔をみときたい、査定もせねばと現われる。Tさんとも12年の付き合いだ。他の入居者と違い、ざっくばらんに話しができたことが、嬉しかったらしい。現状回復は、これくらいでやってよと、甘えると、わかってるからと、オーナーとかけあってくれる。

かみさんがバイトで帰り、しばらくするとハンナのばばあから電話。日曜日にボランティア仲間の新年会が青山中学であるのだが、その景品になればと、バックをとりにきてという。

この間、ネーリストのKがくれた花のお礼に、手作りの袋をくれるというので、Kをつれていったときは、「店に来なくよかったのよ。返って散財させちゃって、申し訳なかったわ」と、そのときも、新年会の景品にと、バッグを届けてくれていた。

KはKで、そのすぐあと、ご馳走のお礼にと、調理しやすいようにゆでた野菜をわざわざ届けてくれた。

かみさんがいっていた言葉。12年の乃木坂生活の中で出会えた出会いは、宝物よ。余剰なものばかりでなく、こうした人とのつながりという大切な宝を得た場所。

移転作業のための養生の板を30枚も、下請けの業者に頼んで用意してくれるという某大手商社のイガとの出会いも、こうした中にあった。

余剰な生き方をしている自分に反省しながら、その中でいただいた出会いという宝に感謝する自分…。