修行
4日仕事始めがほとんどだろうと思っていた。
が、しかし。年始早々の午前中、あれこれ連絡をとらなくてはいけない用件で電話をすると、留守電だったり、担当者がいなかったり…。
4日仕事始めでも、ゆかりの神社に社員全員でお参りしたあと、社内会議というところがあったり、社長訓示の後、会議をやってもすぐに簡単な新年会というところもありで、実質、業務開始は5日からというところが多いらしい。
また、平常通り営業していても、全員出社ではなく、年末年始からスケジュールを組んで、休日を調整しているらしい。ということが、連絡を入れて、わかる。
年始早々から勢いをそがれた格好。実質的には、6日、7日始動というところが意外に多い。昨日のオヤジの電話ではないが、よくよく考えてから行動しろという言葉を思い出す。
段取りを組むとバタバタと片付けてしまう癖がある。バタバタと片付けるというスピード感は必要なときもあるが、見落としや誤解、読み違いを起こすこともよくある。
一気呵成にという性格は昔からだから、オレは、そのせいで、いろいろな見落としで、これまでいくつも失敗しているし、その独断専行で迷惑もかけてきた。仕事でも、女性でも、買い物でも、そうだ。波乱を呼んだり、散財をしてしまう悪い癖も、そこからきている。
それに、そろそろ気づけ。正月早々、そのオレの短所を指摘されたのだ。
人は、ときとして思う。自分という人間はどうして、こうも同じ失敗や過ちを繰り返してしまうのだろうと。
無難に、事なく、堅実に生きられる人と、そうではない人が、この世の中にはいる。買い物やセックス、薬物などの依存症と同じように、自分の生き方に執着する依存症もある。押しなべて、何かに執着する人間は、その執着が強い分だけ、無難に生きることができない。
できない理由は、自己をコントロールする力が弱いからだ。脳の中枢にある視床下部は、本能をつかさどるが、こうした人間は、本能的な欲求が強く、それをコントロールすることが不得手。それが、無難な生き方をさせなくする。
心を鍛えると、よくアスリートたちが言葉にするが、要は、この本能的な欲求をいかにうまくコントロールできるかということ。ボクサーのウェイト調整や日々同じ訓練の繰り返しを可能にするためだ。
仏教では、それを「心田を耕す」という。硬い、手付かずの畑には作物はならない。土をやわらかくし、水や栄養素を吸収できるように耕すことで、そこに様々な作物が実り、それが、人々を幸せへと導く。
つまり、心をやわらかく、おだやかにし、栄養という仏の教えを吸収できる心をつくるということだ。
だが、それがわかっていても、なかなかできないのが、凡人というものだ。とりわけ、グイグイ押して、自分の人生を貪欲に切り拓こうとする人間には、どうしても本能的な欲求がなくては前へ進めない。そこに葛藤や苦しみが生まれる。
アスリートにしても、本能的な身体能力がなければ、一流の選手になることはできない。だから、本能と心を鍛えるというジレンマの中で、人は生きなくてはならない。欲求がなければ、目標を立てることも、持つこともできないからだ。
密教の奥義には、本能をつきつめることでたどりつける仏の境地があると伝えている。本能は否定するものではなく、そこにこそ、宇宙の真理とつながる道があると語る。危険な一面があるがゆえに、深く修行を積んだものしか、ふれてはならない奥義。
何事か、人生を切り拓こうとする人間は、実は、その奥義と出会うことを求めているのかもしれない。
だが、凡人であるがゆえに、本能との葛藤の狭間で、のた打ち回る。しかし、それが、修行でもあるのだ。
が、しかし。年始早々の午前中、あれこれ連絡をとらなくてはいけない用件で電話をすると、留守電だったり、担当者がいなかったり…。
4日仕事始めでも、ゆかりの神社に社員全員でお参りしたあと、社内会議というところがあったり、社長訓示の後、会議をやってもすぐに簡単な新年会というところもありで、実質、業務開始は5日からというところが多いらしい。
また、平常通り営業していても、全員出社ではなく、年末年始からスケジュールを組んで、休日を調整しているらしい。ということが、連絡を入れて、わかる。
年始早々から勢いをそがれた格好。実質的には、6日、7日始動というところが意外に多い。昨日のオヤジの電話ではないが、よくよく考えてから行動しろという言葉を思い出す。
段取りを組むとバタバタと片付けてしまう癖がある。バタバタと片付けるというスピード感は必要なときもあるが、見落としや誤解、読み違いを起こすこともよくある。
一気呵成にという性格は昔からだから、オレは、そのせいで、いろいろな見落としで、これまでいくつも失敗しているし、その独断専行で迷惑もかけてきた。仕事でも、女性でも、買い物でも、そうだ。波乱を呼んだり、散財をしてしまう悪い癖も、そこからきている。
それに、そろそろ気づけ。正月早々、そのオレの短所を指摘されたのだ。
人は、ときとして思う。自分という人間はどうして、こうも同じ失敗や過ちを繰り返してしまうのだろうと。
無難に、事なく、堅実に生きられる人と、そうではない人が、この世の中にはいる。買い物やセックス、薬物などの依存症と同じように、自分の生き方に執着する依存症もある。押しなべて、何かに執着する人間は、その執着が強い分だけ、無難に生きることができない。
できない理由は、自己をコントロールする力が弱いからだ。脳の中枢にある視床下部は、本能をつかさどるが、こうした人間は、本能的な欲求が強く、それをコントロールすることが不得手。それが、無難な生き方をさせなくする。
心を鍛えると、よくアスリートたちが言葉にするが、要は、この本能的な欲求をいかにうまくコントロールできるかということ。ボクサーのウェイト調整や日々同じ訓練の繰り返しを可能にするためだ。
仏教では、それを「心田を耕す」という。硬い、手付かずの畑には作物はならない。土をやわらかくし、水や栄養素を吸収できるように耕すことで、そこに様々な作物が実り、それが、人々を幸せへと導く。
つまり、心をやわらかく、おだやかにし、栄養という仏の教えを吸収できる心をつくるということだ。
だが、それがわかっていても、なかなかできないのが、凡人というものだ。とりわけ、グイグイ押して、自分の人生を貪欲に切り拓こうとする人間には、どうしても本能的な欲求がなくては前へ進めない。そこに葛藤や苦しみが生まれる。
アスリートにしても、本能的な身体能力がなければ、一流の選手になることはできない。だから、本能と心を鍛えるというジレンマの中で、人は生きなくてはならない。欲求がなければ、目標を立てることも、持つこともできないからだ。
密教の奥義には、本能をつきつめることでたどりつける仏の境地があると伝えている。本能は否定するものではなく、そこにこそ、宇宙の真理とつながる道があると語る。危険な一面があるがゆえに、深く修行を積んだものしか、ふれてはならない奥義。
何事か、人生を切り拓こうとする人間は、実は、その奥義と出会うことを求めているのかもしれない。
だが、凡人であるがゆえに、本能との葛藤の狭間で、のた打ち回る。しかし、それが、修行でもあるのだ。