秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

愛の涙

霞ヶ関に撮影にいく。

数ヶ月前、イワとベティとたべっているとき、日本国憲法の話題になり、ふと思い付いた企画。政権交代が起き、政治の話題が茶の間の話題になるようになったいま、改めて、子どもたちが、国民主権を始めとする民主主義の基本を学ぶ、いい機会。それに気づかされたのだ。

しかも、得意の政界ネットワークを使えば、議員に直接取材もでき、これまでの学校副教材とは違う、リアルな作品がつくれる。協力取材だからコストもかからない…。

コストがかからないと考えたのは、撮影日数やレンタル映像の費用などで、誤算だったが、議員さんの声を直に、子どもたちに伝えるということは、比較的容易にできる。

政治家というと、どうしても、ダークイメージがある。贈収賄汚職などといった、不正行為でのイメージだけでなく、選挙を支える団体の代弁者として、一部の利権を擁護する偏ったイメージや地盤、血縁、カバンといわれる、同族的な村社会の悪しき弊害からいつまでも抜け切れない、因習や慣例のようなものと密着しているイメージがあるからだ。

なにかの団体や組織にいなければ、政治への声が政治家にも政界にも反映されない、というこれまでの日本社会の政治、政治家との関係が、こうした印象を定着させてきた。それを嫌うあまり、浮動票といわれる、投票にいかない人々の増大も生んできた。

しかし、政治家が団体や組織に依存し、支持されたそれらの人々の主張を政治の中に反映させようとすることは、当然のことだ。選挙で当選しなければ、政治家足り得ない以上、いわゆる組織票に頼るという構図は、決して批判されることではない。市民団体の支援といっても、それも組織票に過ぎない。

ただ、問題なのは、組織票に頼るにせよ、まずは、政治家自身の主張や考え、ビジョンが先になければならなにということ。

団体や組織の利権を守るために、自身の政治理念や構想を棚上げしたり、それ自体、持ち合わせてない中で、魂を売って、おらとおらを支持してくれた団体さえ、うまい汁が吸えたら、ええだべさ、では、政治家とは言えない。

国民の、市民の血税によって、国民の、市民の代表として、法律をつくり、行政を動かす立場になる以上、その立ち居地や視座は、公平でなければならないし、地域、社会、国全体の公益をまず第一に考える、それでなくてはならない。

その考え方、目指す方向の違いが多様であることはいい。それが、正当な議論を生み、それによって、政治は磨かれ、よりよい形で、国民、市民への公益をもたらす。それが、本来の政治のあり方だからだ。

今回、バランスをとって、民主、自民双方から議員に登場してもらったのだが、幸いなことに、政治的には、リベラルで、国民感情としても、好感度の高く、知名度の高い方たちが登場してくれた。

政治家に不満や疑念を持つのはいい。それが国民、市民の一つの権利でもある。だが、だからといって、政治から逃避していては、国も、地域も、社会も変らない。そればかりか、自分たちが政治とは関係ないと思い込んでいる、日々の暮らしのあり方も変らないのだ。

就職や仕事においても、男女の出会いにおいても、結婚、出産、子育てにおいても、そして、老後と死においても、人が生きるということのすべてに政治が関与している。

この国の人々は、この数年の幻想と幻想の崩壊によって、やっとそれに気づき始めた。それを子どもたちの世界にも広げたい。その願いがオレにはある。

自分自身、芝居や社会派といわれる映像表現の道を歩むようになったのも、教育シンポや社会イベントを手かげるようになったも、その結果、方向性を同じくする識者たちと出会えたのも、すべて、中学時代に学んだ社会科の公民の学習や高校時代の政治経済という学科が強く影響していると感じているからだ。

オレは大学受験も政治経済を選択受験した。それは、オレのそれからの道をある意味、決定づけたと思っている。政治経済系の学部ではなく、文学部に進んだのも、政治経済を学んだがゆえに、それをもっとも人の心に訴えられるのは、文学的表現にしかないと、どこかで確信していたからだ。

人が自分の生活や社会の問題に気づく。ということは、難しい政治や経済の理屈では追いつけない。文学が政治のプロパガンダになることはあってはならないが、人が生き、そして死ぬことの意味や姿の中に、この国の歪んだ歴史を知り、時代性や時代性から引き出される問題を検証する伝手がある。

それは、また、人が生き、死ぬということの意味を、より深く創作者である自分にも、創作にふれる他の人々にも考えさせることになる。そう思っていたからだ。

昨日の深夜、平川雄一朗監督のデビュー作品『そのときは彼によろしく』をテレビでやっていた。

転校生の少年と地元にいる少年、少女、三人の出会いと、13年後の出会いを描いた作品。韓国映画を思わせる、透明感のある作品で、小作品ながら、いい作品だった。

その中の主人公の少女は、両親に捨てられた子。少年の一人は、母親に捨てられた子。原作のある作品だが、その設定の中にも、実は政治がある。政治がつくった国の姿の断面がある。

歪になった家庭の中で、家庭的な温もりを求める子どもたちの姿、それ自体に政治はない。しかし、そのせつなさの奥を凝視し、子どもたちにそうした思いをさせてしまったものは何なのかを考えれば、政治に突き当たる。

それを感じるのは、オレが子どもたちの、親や教師も知らない孤独な感情を、いじめ、ひきこもり、自傷、薬物、売春といった題材として取り上げているせいもある。だが、そうした予備知識なく、きっと多くの人が、この映画に涙したと思う。

その涙の中には、本人たちが自覚的であるかどうかは別にして、政治への怒りや政治に翻弄されている子どもたちへの愛があるのだ。

平川監督が、後にテレビで『白夜行』のメインディレクターを務め、この映画の後、『ROOKIES』を手掛け、TBSの『JIN』を担当したことでも、予測できる。

政治がつくった社会の矛盾とその怒り、それでもひるまず、乗り越える力は、愛の涙に変る。