秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

システム手帳

昨日は、仕事の合間に新宿東急ハンズに自転車を飛ばす。

表紙が痛んでしまったハンディサイズのシステム手帳を探す。劇団をやっている頃からシステム手帳は生活必需品だった。企業人になれば、なおさらで、役員になればもっとで、独立したら、ますます不可欠。その度に新しいシステム手帳に衣替えし、次第にでかくなっていった。

それが、携帯電話の進化で、システム手帳に頼らなくなった。

事前予告はしてくれるし、打ち合わせ中、その場で入力できる。カレンダーで数ヶ月先の曜日まで確認できる。見た目きれい。その利便性に、いつかすっかりシステム手帳は、サブノートのようになっていた。

それまではシステム手帳というより、資料もファイリングできるような大判を使っていたのだが、以来、ハンディサイズにして、たまにまとめて予定を記入するといった程度のもの。

仕事の打ち合わせ会議などで、メモをとる必要があるから、相手先へのパフォーマンスを含めて、手元に出すことこはあっても、いまどきの人のように、常にシステム手帳を開くということをしなくなっていたのだ。

会議などで、どんと大判のシステム手帳を出されるのも、出すもの、最近はちょいダサいと思うようになっている。それだけ仕事の量が多く、忙しさで失念することを心配するからだろうし、自分もかっては、そうしたことが当然だと思っていたのだが、どうも見た目、かっこいいとも思えない。

だから、システム手帳をあえて、買い換える必要もないと思っていた。オレが使っていたハンディサイズの手帳は、もう10年以上も前のものだ。合成樹皮の角が痛んでいたが、それで足りている。毎年、中身だけを新しくして使っていたのだ。

ところが、12月に入ってから、自主制作、プレゼン、原稿書き、編集システムのことやらで、年をまたいで、あれこれ段取りしなければならないことが、あまりに増えた。それに応じて、あれこれ人前に出て、プレゼンやら、取材やらがある。

ならばと、久々システム手帳を買い換えることにしたというわけ。

一つには、自分の気持ちが、そうしようと動いたから。いつもオレは直感で物を買う。直感というのは、それが必要とされる時、事、場があるという直感だ。だから、流行や時代のノリで、何か物を買うということはほとんどない。

物は生かされなければ、価値がない。だれが、どのようにつくったかは知らないまでも、つくった側は、それが愛され、大事に使われることを願っているに違いないと、オレは思う。

物は、つくるものの、ある思いを伝えているのだ。オレは、なにかそうした思い、つまり、物をつくる側には、センスや主張がないと、いけないと思っている。届けたいメッセージのない物は、何につけ、つまらない。それを使っている奴も味気ない。

つくる側の思いに応える一番は、使う人間が、それを生かして使うことだ。だが、生かして使うというのは、ただ使えばいいのではない。

その人間の仕事や生活スタイル、考え方、生き方に、深くからみ、その人間に物以上の意味と価値を与えてくれるような使われた方をしてくれたとき、物は生きる。ような気が、オレはしている。

ファッションは、ライフスタイルだ。といわれるのも同じことだと思う。自分がより、自分を表現でき、自分の特性や個性を発揮できる心地よさだ。それは、物が人の心を豊かにしている。

物は道具だ。しかし、だだそう思っているだけだから、物を買う、使うという消費が、ただ消費するという心無い使われ方になる。時代の流行やムードに、心をさらわれ、同じ服を着、似たような物を使い、新しい商品情報が出ると、それに翻弄される。

自分が物を使っているのではなく、物に自分が使われている。

オレたちの子どもの頃は、なんでも手に入る時代ではなかったのもあるが、物を大事にしないと、ずいぶん叱られた。食べ物をを粗末にすると、それ以上にひどく叱られた。

とりかえのきかない、大切なもの。そんなふうに、物を使っている人は、いまどれくらいいるのだろう。

その思いは、人を大事にする思いにもつながるような気がする。この世に二つとない大切なもの。物にいのちがあると思える人は、人のいのち、出会いも自然と大事にできる。

環境問題を論じるのは大事だが、物と人の関わり方、自分と物とのつながりのあり方を見直す方が、よほど環境のことを考え、いまのこの国のあり方を考えるヒントをくれるのではないだろうか。

古くなったハンディサイズのシステム手帳は、当然、捨てることができず、おつかれさんと心でつぶやき、机の抽斗に、いまもしまってある。