秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

未熟もの

仕事の連絡で、二年ぶりくらいにデザイナーのAに電話をする。

と、いるはずの会社兼自宅の電話がつながらない。番号案内の音声が、移転のため…とながれ、携帯の電話番号をガイダンスする。

このところの景気の低迷で、奴も移転したか…。と思いつつ連絡すると、なんと仙台の自宅に帰っていた!

どこか経費のかからない場所に移転したのではなく、完全なUターン。聴けば、仕事も少なくなり、あえて東京で事務所を構えることもないかと思い、かつ、いい年齢になってしまった両親のこともありで、総合的に勘案すると、経費もかからない、仙台の自宅で細々ながら仕事を続けるのが、かしこいことだと判断したらしい。

オレが奴と出会ったのは、大学のクラスメートで、コピーライターをやっているTの紹介。オレがまだ、広告系の仕事をバリバリやっていた頃だから、もう十年以上前になる。

実は、その頃から、フリーのデザイナーで仕事を続けるのは苦しそうだった。それでも、あれやこれや器用にこなしながら、仕事を続けていたのだが、さすがに、維持するのは辛くなったのだろう。

ただ、仙台は、新幹線で1時間半足らず。下手に東京郊外に安い賃貸を探すより、効率はよかったかもしれない。

オレの仕事でも映像データなど重いデータも、ネットの宅配便を頼めば、送信できるようになっている。奴のグラフィックにしてみても、初回の打ち合わせと数回のやりとりで入稿できないわけではない。

同じ知り合いのデザイナーのHさんは、上海に別事業を展開し始めたのだが、その事業が落ち着けば、上海にデザイン会社を立ち上げ、データのやりとりだけで印刷業務まで請け負うシステムにしようともくろんでいる。

つまりは、データのやりとりが容易になったことが要因。だから、仙台だからといって、ものすごく不都合があるわけでもないだろう。ただ、打ち合わせ頻度の高い仕事やそれなりの規模の仕事、さらには、新規の仕事はなかなかとりにくいに違いない。

まだ、人生をまとめに入るには、ちょい早い気がするが、自分なりの無理をしないペースで、親の面倒もみられる中で、仕事をするというのは人間としての理と義にはかなっている。

オレのように実家が、とはいってもそこはいま、姪っ子夫婦に占拠されて帰れないが、福岡とか札幌とか遠隔地にあると、さすがにAのような見切りはなかなかつけられない。

来年86歳になるオヤジのいるオレは、もちろん他人事ではないし、実は半年ほど前から、Aと似たようなことも考えているのだが、どうしたって、オレの場合はオヤジをこっちに呼ぶしかない。

デザイナー的に、ライター稼業だけとか、監督だけとか、スペシャリストとして生計を立てていればいいが、オレの仕事は、そうではないし、周囲がオレに期待しているのも、スペシャリストとしての秀嶋だけではないと思う。

リサーチやプロデュース稼業もこなせるライターであり、監督だから魅力を感してくれていると思うし、オレもそうした仕事内容でないと気持ちがもたない。ゆえに、人と会い、人と接することが常時できる環境でないと、仕事を続けていくことは難しい。

仙台で近いからそういうことができるのは、うらやましい…。とAには言ってみたものの、自分がそうした条件を与えられたとしても、できないだろうなと確信している。

この間、Norikoとメシをしたときにも話したが、奴も母親ひとり。妹が地元にいるから、まだいいとしても、妹が結婚したりということになれば、当てにならない姉ながら、考えなければいけない時期もくるだろう。

若い頃は、親の老いは理解できていても、その老いと自分との関係を深く考えたことはない。自分が生きるのが精一杯で、そのゆとりがないのもある。

しかし、親のことというのは、ゆとりがあってなんとかなるものでもないような気がする。側にいて、親孝行らしいことができるのは、理にも義にもかなっているが、地方から出てきてしまった人間には、そうそうたやすいことでもない。

こうした話題が自分の身近で普通のことになっていくのは、親も年老いているからだが、自分もいい年齢になっているから。

それをどこ吹く風で生きてきた、オレのような人間には、久々のAの事情はそれなりに重い。

とはいいながら、自分の人生、なかなかまとめに入れない、往生際の悪さで、今日も明日も、食うための作品の段取りに走り、頭の隅で自分の表現したい作品の数々が、こっちにおいでと手招きする。

オレは、まだAの境地に達していない、未熟もの。