秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

昨日、ブログの更新も失念するほど仕事に没頭していて、ふと気づいて、ブログを書き終えると、広告系の会社の制作担当のIさんからメールがくる。

前日の夜に、数年振りにメールをもらい、WEBコンテンツの見積をくれないかと相談があった。承知したというメールは送ったものの、いくつか確認したい事柄があり、数回、電話を入れていたのだが、いずれも不在。やむなく、メールで用件を入れておいたら、8時半過ぎに返信がきた。

その内容を確認するために、いまならいるだろうと電話すると、なつかしい声が返ってきた。相変らず、仕切り屋特有のしゃべくり方。繊細のようで、大まかなところがあり、オレが心配するほどに詰めは必要としていなかった。予想したとおり。

実は、Iさんとは、不思議な縁。というか、こんなことがあるのかという、奇遇の再会だった。

Iさんと仕事をしたのは、いま舎弟になってしまった、Sの会社の仕事をIさんの会社が請けていたとき。仕事つながりの、だれかの紹介だったか忘れたが、ある日、Iさんから電話をもらい、Sの会社の販促を手伝って欲しいといわれてからのご縁。

Sのところの仕事をしている間は、気づかなかった。仕事が終わって、酒席であれやこれや、いままでしなかった仕事以外の個人的な会話をしていたら、互いにはっと気づいた。オレとIさんは、高校時代に出会い、会話も交わしていた!

互いにすぐに気づけなかったのは、高校が違っていたから。

オレたちは、同期の福岡地区の高校演劇部員だったのだ。しかも、互いに部長。だから、演劇コンクールや夏の演劇セミナーの合宿や、当時、労働者団体演劇鑑賞会(現在の市民劇場)などの会合で、頻繁に顔を合わせていた。30年以上ぶりの再会だった。

Iさんは、部長会の会長を務め、世話係をこなす、面倒見のいい人だった。当時は、うちの高校は、三年連続で地区大会で落選していたが、Iさんの高校は、男子校ながら、二年に一回は、地区大会を突破していた。

4年前に県大会に出場したきり、落選続きの高校のオレは、悔しさと肩身の狭い思いで、部長会に参加していたのだが、うちの高校の舞台装置は凄いと、いいところをみつけて、ほめ、それをきっかけに、遠慮しないでいいように、部長会の輪にとりこむ、気遣いの男だった。落選続きの高校の部長は、委任状を出し、ほとんど参加していなかったからだ。

酒席で互いの高校の話をするうちに、部活の話になり、あれよあれよと当時の記憶が蘇った。

当時、福岡地区で、全国トップレベルの芝居をやていた有名進学校筑紫ヶ丘のKは、当時、鼻持ちならい奴だったと、二人で笑った。

あまりに高校生ばなれした芝居に、当時の福岡地区高校演劇部の連中は、コンプレックスとやっかみ、そして、尊敬のまじった感情で、Kたちを見ていた。

まして、うちの高校とKの高校は、当時、学区に二校しかない、県立高校で、片や県内トップレベル、片や県内の落ちこぼれ県立高校という差。それもあって、オレもKも当時は、互いにどこかで敬遠していた。

ところが、卒業後、奴は九州大学に進学したものの、後輩の部活の指導をし、オレは、オレで浪人時代と早稲田に入ってからも部活の指導をしていたことから、急速に親しくなった。芝居の質や目指すものは違っていたが、オレが指導するようになって、うちの高校が筑紫ヶ丘と互角の勝負をするようになり、KやKの高校演劇部の担任が一目置くようになったからだ。

うちの高校がKの高校演劇部と福岡地区高校演劇を双璧になって牽引するなど、Iさんには想像もつかなかったことだろう。大学に進学して、高校演劇とは縁のない生活を過ごしたIさんには、それも新鮮な驚きだったらしい。

しかし、まさか、東京の、しかも同じ南青山に会社があり、人の紹介でうちの会社を知って電話してきたIさんと、こうした形で再会するというのは、本当に不思議というしかない。オレもIさんも、まさか、こうした出会いで、当時の高校演劇の思い出を東京で語り合えるとは思っていなかった。

人の縁とはわからない。Iさんとは部長をやっていた、わずか一年の間の、しかもイベントがあるときの会議での出会いだけだから、数回の出会いでしかない。それが、こうした結びつきを生む。

今回、会社の体制が変り、新しくパッケージビジネスを展開することになったとき、Iさんにも、その記憶がよぎったのだろう。

こうしたことに近いことが、オレには度々ある。この間、東映のCさんに、広報DVDの相談をされたら、その会社が20年以上前、オレがリクルートの映像作品をつくった会社が、他の会社と合併してできた会社だった。社長も同じ人物…。

世の中、縁で結ばれている。