秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

義父のこと

義理の父の三回忌がくる。

おふくろが亡くなった、翌月の末、つまりは、12月31日に他界した。通夜、葬儀は正月の1日、2日だった。医師から、前立腺がんの症状についての説明はあったものの、死がまじかという話はなかったから、大変だった。まして、正月、ど真ん中。

かみさんが、鹿児島に一足先に帰省していたのは救いだったが、連絡をもらったオレは、東京にいて、晦日の夜にインターネットで慌てて航空券を探した。

1日だから、行きの便はあるが、帰りの便がそう簡単にとれるはずがない。4日には、東映の自主作品の撮影のためのスタッフ会議が組まれていたから、遅くとも4日の昼には、戻らなくてはならなかった。

ダメだったら、撮影のスケジュールまで組みなおしになり、大変な騒動になると思った。監督が欠席では、仕事は進まない。ところが、一席だけ空席がある。もう少し遅かったら、埋まっていたはずだ。実際、義姉のだんなは、8日まで鹿児島発の飛行機がとれず、5日に福岡までいって、新幹線のグリーン車で帰るしかなかった。

結婚して数年後、義父が鹿児島にひっこんでいたので、かみさんと正月に実家に遊びにいったことがある。義父は、自ら求めて指宿にひっこんだのだが、親戚はいるものの、夫婦二人だけの生活は寂しかったのだろう。オレたちが帰るときに、ふと、「これで正月も終わった…」と溜息まじりに、もらした。

義父が、ねらったように、年末年始を挟んで、他界したのは、二人娘に正月は鹿児島に帰って、お母さんに会い、先祖代々の墓参りに来いよと願っていた思いがあったからではないか…。そんな話を通夜の席で、話したのを覚えている。

義父は、戦前の超エリート校、陸軍士官学校を出て、20歳そここそで、そのまま陸軍航空隊隼戦闘隊の小隊長になり、北海道の千歳で、終戦を迎えた。少尉だったために、戦後の裁判で、B級戦犯になったが、幸にも釈放された。

戦中、戦後の食糧難を経験していた義父は、これからは、この国には農業が大切だと農政の中心である、農水省に勤めたいと思っていたらしい。それで、釈放されると京都大学農学部を受験して合格した。

敵国語であるロシア語は士官学校で鍛えられいた。オレが大学でロシア語をやっていたというと、さらさらと流暢なロシア語を話し、驚いた。発音は完璧だった。たが、英語はまったく勉強しておらず、単語を丸暗記して、京大に合格したというから、士官学校恐るべしだ。

敗戦後、京大、東大など旧帝国大学には、陸軍士官学校出身の元軍人がずいぶん合格している。あまりに、士官学校出身者の合格者が多いために、国の中枢に元軍人が増えることを怖れたGHQの指示で、定数制限が設けられたほどなのだ。陸軍士官学校は、現在の東大の比ではない超難関だった。

しかし、農水省には入省できなかった。B級戦犯公職追放にひっかかっていた。しばらくは、議員の秘書などをやってくいつないだらしい。やがて、公職追放がとけたが、新卒以外は採用しない農水省への道は閉ざされていた。農政にかかわれる場は、政府系の農水関連の公庫しかなく、金勘定は大嫌いだと思っていた義父は、そこに就職した。

農業経営や農政の運用については、国政にかかわる一流の仕事ができたのだろうが、自分の学んだ農業の知識や情報が農業の現場で直接生かせなかったのは、無念だったのだろう。関東総局長になり、役員として残れという話を断わり、60歳で退職すると、名誉も収入も捨てて、鹿児島に帰って、自前の畑で農業をやるようになった。

義父の理想の生き方は、西郷隆盛だったのだ。

中央政界の腐敗や利権を嫌い、鹿児島にひきこもり、晴耕雨読の生活をしていた、その姿に自分を重ねていた。金銭には厳格な人だったし、洋食が大好きな人だったが、生活は質素そのものだった。まさに、いまNHKスペシャルドラマをやっている「坂の上の雲」に登場する人物のような人だった。

頼りないオレとかみさんの結婚には、最後まで反対する気持ちがあったのだとは思うが、結婚してからは、会う度に、戦中、戦後の話、自分の好きな本や作家の話を留まることなく、語り続けた。拝金主義に踊らされ、政治家の腐敗や商業主義に踊らされた人心のあり方を批判し、嘆いていた。

息子がいなかったせいもあるだろう。娘たちに話をしても伝えきれない、戦争体験やこの国、社会のそもそも論が語れるのがうれしかったのだと思う。

結婚前は、エリート主義のオヤジだと思って、反発心もあったオレだが、話をする度に、その見識の広さ、経験の深さ、教養の高さに驚いた。にもかかわらず、自分の未知の情報や話には、謙虚に耳を傾ける姿に脱帽した。気さくに冗談もいって、人を笑わせた。

「もっと早く、お義父さんに会っていたら…。本気でそう思うよ」と、かみさんに言ったことがある。自分の上司や先輩として、こういう人からいろいろと学べたら、どれほど鍛えられ、幸せだったろうとつくづく思った。いままでの自分の人生では、出会ったことのない、真のエリートだった。

亡くなるまで不義理をしたし、不遜なこともした。オレのいわば、放蕩のような生活や仕事でかみさんが苦労する姿に胸を騒がさせてしまったことも、一度や二度ではない。しかし、それについて、オレに恨みがましいことも、責めるようなことは、晩年、一言もいわなかった。

何一つ、恩返しができないまま、逝かれてしまった。

その慙愧を、オレは、毎年年末年始に感じ続けなくてはならない。そして、存命中、報えなかった思いを忘れず、義父からいただいたものを自分の人生の中で、少しでも生かさなくていけないと思う。

少しでも義父の生き方に近づけたら。そこに何か別の世界が見えてくると、オレは思っている。

葬儀が終わって、指宿の義父の本棚を見ると、小室直樹の『イスラム原論』がある。オレも愛読した本だった。指宿の田舎で、娘たちのために枝豆や玉ねぎ、にんじんなどの野菜をつくりながら、高齢の義父は、まだ、世界を学ぼうとしていた…。