秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

めがねの悲しみ

二日酔いの残る身体で、午後、新宿へ自転車を飛ばす。

5年近くつかていた、DNKYの眼鏡が、劣化でセンターからプツリと折れてしまった。11歳のときから、眼鏡をつける生活だが、その中でも、このモデルは超気にいっている。

この十年、めがねは、さくらや。同じモデルを手に入れようと、新宿西口のさくらや眼鏡館までいくと、あれれ、いつの間にか、そこはユニクロに変っている。最近は、量販店や廉価アパレル店舗の進出などで、店舗の移動や閉店、開店がめまぐるしい。

電話で、問い合わせると一年前に東口に移ったという。で、東口へ。ついでに、着脱式のグラサンに傷が入っていたので修理する。お気に入りの眼鏡は、メーカーに在庫があるかどうか確かめなくてはいけないらしく、返事は来週になるという。

小学生のとき、初めて眼鏡をかけたとき、世の中は、こんなにもくっきり、鮮やかな風景なのだと感動した。そして、やがて、眼鏡生活を送る中で、ああ、オレは、もう肉眼でこの風景を見ることは、一生できないのだなと、寂しい思いをしたのを覚えている。

オレは、近視よりも乱視がひどい。そこに、老眼(遠視)まで入っている。最近はやりのナントカという矯正手術でも修復できないらしい。つまりは、眼鏡かコンタクトが死ぬまで必要ということだ。異物を付けることが好きではないオレは、だから、一生眼鏡生活ということになる。

小学生のとき、円地ふみ子の「めがねの悲しみ」という随筆が国語の教科書の中に載っていた。

めがねの不自由さをあれこれ綴りながら、しかし、物事がくっきり見えない方が生きている上で都合のいいこともあるというような内容だった。

確かに。世の中、なんでもかんでも白日に晒し、なんでもかんでも人の眼にみえるようにしなければいけないと、せちがらく物事を暴くより、多少の曖昧さやいい加減さがある方が、人は生きやすいし、曖昧な部分を自分の想像力で補う方が、ロマンも夢もある。

相手の顔のにきびのあとやそばかす、吹き出物、その一つ一つが微細にわかっては、興ざめする。

しかし、とかく人は、なんでもかんでも暴こうとする。それが人を追い詰め、人との関係をギスギスしたものにしてしまうことも気づけずに。おおらかに、ま、それもいいと思い切ったり、わからなくていいんじゃないと置いておくということができない。

人の心をすべてわかろうとしても、わかるはずはない。こうではないかと予想はつくことはあっても、相手があえてそれを言葉にしないうちは、直接的に問いただしたり、問い詰めたりしない方がいいことの方が多い。相手が自分から、こうだ、ああだと言い出すのを待ってやる方が、物事すべからく、うまくいくものだ。

元女優のKが、このところメールしてきたり、一緒に食事がしたいと会ったりしていたのだが、ちょい思うところがあって、メールに返信しないでおいた。すると二週間ぶりくらいにメールしてきて、また食事をしたいという。夜のお水系アルバイトの方でもなにやらあったらしい。

キャバ嬢のアルバイトをやると奴がいったとき、オレはあからさまには反対しなかった。しかし、オレの表情を見て、それとわかったらしい奴は、「反対ですか?」と聴いてきた。反対はしない。しかし、「あまり薦められないね。でも、やってみたいんだろ?」とオレは問い返した。

その表情を見て、「だったら、やってみたらいいだろ」と否定はしなかった。やらせて、自分で考えさせるのがいいと思ったからだ。理由があった。中学生のときから業界に飛び込んだ奴は、同世代の女の子たちがやっている遊びがほとんどできなかった。

同年代の仲間と同じことをやってみたい。いままでやれなかったことをやってみたい。俳優の道をやめ、恋にも裏切られ、なにかで自分を変えたいと思うあまり、あれもこれもと、焦っているのがわかっていた。つまらない男遊びもやっていた。その心の奥にある寂しさもわかっていた。だが、それをとやかくいったところで、奴が目覚めない限り、次は見えてはこないと思っていたからだ。

それが、真剣に付き合いたい男が現われ、キャバ嬢はやめることにしたという。それに気づけるだけの心根はある奴だと信じていた。同世代の連中や同性からは、あまり好意をもたれないタイプの奴だが、オレは、それを信じていた。

人は、癖のある奴ほど、目覚めれば大きな力を発揮する。それを信じて、物事をつまびらかにしないことも大事なのだ。裏切られることもないわけではない。しかし、疑心暗鬼に人を見て、相手を傷つけるより、こちらが裏切られる方が、まだましだ。人を信じられなくなるより、よほどいい。

オレの近視、乱視、それに遠視も、そういう意味では役に立つ。