秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

半纏という日本の常識

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青山まつりの最終日、数年前から気になっていたものを買う。

剣道の剣道着を素材に、半纏や写真にあるような火消し衣裳を創作している出店。相当高額だったが、半値に値切り、ええい! と買ってしまった。

剣道着、半纏、火消しの三大話にやられたのではない。このうさぎの家紋にやられた。

銀座のDESCELで革ジャンの誘惑に誘われていたが、どの色もすでに持っている色。材質は違えど、同じ革ジャンはいかがなものかと思う。すると、今年の冬用の新着で欲しいものが何一つない。

朝、ジョギングしているときに、外苑銀杏並木の道すがら、これをみつけてしまった。

革ジャンと変らない高値に躊躇してたら、買わなくてもいいから、袖を通してみろと、いい感じの下町風夫婦に乗せられ、袖を通す。

「つくっている奴もヘンな奴だけで、これに目をとめる人も、ヘンな人。似合うなら、値引きするよ」なんておだてられながら、いつの間にか、着せ替え人形になり、あれこれ試着させられる。そのうち、おばさんたちが集まり、「いいわね。似合うわよ」などと、ここは江戸時代の下町か、と思うような人だかりになる。

欲しそうにする、おばさんたちもいたのだが、みんな値が張るから、最後には手が出せない。出店のモデルよろしく、あれこれ着ていたが、いくら半値にまけてくれるといっても、そんな金を持って、ふらりと立ち寄るわけがない。で、半値からさらに1万円値引きしてくれるならと、いうと、とっておいてくれるという。

あわてて自転車を飛ばし、AMPMで金を引き出し、買ってしまった。

店の夫婦がいい感じでなかったら、買っていない。ちょい下町風で、粋でいなせ。それと、オレがこういう派手な衣裳を好きと見抜き、「これを着こなせる奴は、そういない」という言葉にやられたのだ。

そいつを羽織り、青山まつりの出店を歩いていると、店の夫婦、関心したように、「あんたくらいじゃないと、着こなせなかったよ」と、さらに喜ぶ。

人は、古い伝統や歴史をふと忘れる。人が人として生きて行く上での、人とのつきあい方のルールも忘れる。そして、古い教えや教訓、人が生きる上で、守らなくてはいけない常識もないがしろにする。

とりわけ、いまという時代は、そういう時代だ。当たり前の常識が、人とのつきあいにおいても、教育でも、社会生活の中でもできていない。

セックスを愛と勘違いし、遊びを仕事と勘違いし、自分の人生と真剣に向き合えない奴は、自分のいのちを磨くことも、他人のいのちのために生きることもできはしない。

そんなことを、日本の過去の文化や歴史に学ぶ、努力も知恵もないから、そのときの執着や快感におぼれ、ルールや常識をないがしろにする。そして、人の尊厳を忘れる。結果、自分の尊厳も忘れ、使い捨ての道具のように、使われながら、それにも気づけない。

なんてことを、このコート丈の火消し半纏で、主張してやろう。それがあれば、このくらいの値代安いものだ。男気を示すのに、形は大事。

そのいでたちで、青山で人に会う約束があるというベティを誘い、半纏を着て、Kの家にお邪魔。オレも予定が変り、時間ができたので、なにやら最近、判然とした様子がみえない奴をあえて誘ったのだ。

その数時間前、オレが半纏を買いにいこうとしていると、子ども連れのKとバッタリ。寄ってくださいよという言葉に甘え、ならばと、合流したベティも連れていったという次第。

実は、Kの話は、最近判然としない奴には、女として役に立つかもと読んでいたから。ベティは、そんなオレの計算など偶然としか思っていないだろうが。

青山村の集会所上の家にいくと、Kの知り合いの向島の芸者さんが遊びにきている。

で、あれこれ語るが、結論は、男気、女気。さすが、向島で芸者張ってるだけはある。が、聞けば、芸者もそれなりにやりつつ、自分で会社を興しているという。そりゃ、そうだ。その辺のなまくら女とはわけが違う。さすが、Kの友人。ただものではなかった。

Kだけではないが、内実の整っている人間には、そういう人が集まる。しかし、それも、Kがいろいろな人生の紆余曲折を経て、自ら得たものだろう。一度やった失敗や過ちは繰り返さない。その努力を惜しまなかったことと、その一つひとつを学びに変えていけたから。

人は過ちや失敗をやる。繰り返す。そのことは人の弱さとしてあっても、それを糧に変えて、自分という人間を磨けなければ、日々の暮らしから知恵を得ることはできない。

半纏一枚にでも、それを学ぶことはできる。