秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

眼に見えない大切なもの

前々から飲もうとメールでやりとりしていた、NPO事務局長のKさん、WCRP渉外部長のHさんとREDで落ち合う。

紛争地の支援活動で海外を飛び回り、支援団体との会議や講演活動などで、時間がないKさん。世界宗教者平和会議日本委員会の中心的スタッフとして、各国での会議や国内の調整活動などで、世界、国内を飛び回るHさん。

クロアチアの紛争のときには、KさんのNPOの活動支援で、応援に駆けつけたHさんが、遠くに砲撃の爆裂音が聞こえる同じ部屋で同居していた時期もあり、二人はじっこん。しかし、いまや、二人とも要職にあって、海外の国際会議などで顔を合わせても、いつもすれ違いだったという。

で、連絡係りを引き受け、二人をセッティングする。オレ自身、Kさんとは、4月にNPOの報告会でちらりと立ち話をしただけで、酒を飲んだのは、もう4、5年も前のこと。

最初に彼女を知ったのは、クロアチアの紛争が続く98年。オレが企画した広島での平和イベントで、クロアチアから会場の参加者宛に、ビデオレターを送ってもらったのがきっっかけ。

そのコメント映像を観て、この人は使える、この人は、そのうち、日本の対外支援活動を支える重要な仕事をするだろうと直感した。いずれ、メジャーな場で活躍を求められるときがくる。そう思った、オレは、以来、自分で企画するシンポジウムや映像作品に、機会をみつけては出演してもらうようになった。

平和教育の作品となれば、声をかける機会も多いのだが、この数年、人権、社会問題、教育という仕事の多いオレは、Kさんに声をかける場があまりない。それでも、初見から波長が合っていたのと、軽口やきつめのジョークがやりとりできるセンスのよさもあって、あまり会わなくても、どこかで繋がっていると思える人。

人は、社会への視点、世界への視点、そして、その視点の根拠になっている、命への思い、平和への願い、人が理不尽にいのちを奪われ、不遇に直面する現実を見て、人が本当の意味で幸せになるということはどういうことなのかを、常に仕事の中、日々の暮らしの中で意識していると、その捉え方に、共感や共通するものが生まれる。

何に理不尽さを覚え、何を変革すべきかの姿が見えてくるのだ。そして、そのために自分の命を遣おうという気持ちになる。それが理解し合えれば、普段、顔を合わせていなくても、つながり合える。

昨今の国内、世界情勢を語り合ううちに、人の幸せは、物、金だけではないというパラダイムの変換が必要なのだと話をした。戦後64年の豊かさこそ第一としてきた、生き方、考え方を大きく転換するときがきている。

すると、Kさんが、自分が紛争地で体験したある話をしてくれた。

ある貧困の村を訪ね、そこで人々と交流し、帰国しようとしたときのことだ。水不足で、泥水を尺にすくって飲むような生活をしている知り合った人々が、彼女に言ったという。

「あなたが無事で帰国できるように。あなたやあなたの家族がこれからも健康で、幸せであるように、私たちは、ずっと祈り、願っています」

自分の生活もままならないところで、豊かな国から来た人の幸せを願い、その安否に心を砕く。それを見たとき、Kさんは、この人たちこそ、本当の豊かさの中にいるのではないかと感じたというのだ。

豊かな国、日本人から見れば、貧しく、不潔と思える生活の中で、それを自分たちの生活と受け入れ、かといって、豊かさの中にある他者の生活を妬み、羨望することもなく、対等の人間として、その人の幸せを願える心をしっかり育んでいる。

その事実にKさんは、感動したのだ。

このブログの書庫、「あの素晴らしい愛をもう一度」に綴っている、高度成長期の入り口にいたオレたち少年にとっても、その生活は、いまよりはるかに不便で、不潔だったと思う。しかし、オレは、あの時代、あの時間の中に生きられたことを、いまでも幸せにも、誇りにも思っている。

当時、それを貧しいとも、恥かしいとも思わず、生きられ、そこから多くのことを学ぶことができたからだ。

醤油がなくなれば、醤油を貸し借りする。米びつの米がなくなれば、隣の家に借りに行く。それが、当然のこととして、受け入れられた社会の姿、そこで、つましく、懸命に生きていた父や母の姿を通して学んだことが、それからの人生の大きな財産になっている。

それは、物やお金では得られない、眼にみえない大切なものだ。

利便性に慣れた生活の中で、オレたちは、ふと、本来、人として生きる上で大切ななにかを見失うときがある。邪な欲望や情動に支配され、清楚で、清廉な生き方から離れた日々を生きるときがある。

しかし、その火宅の生活に埋没せず、踏みとどまり、本来、あるべき人としての生き方に揺り戻せるのは、貧しさの中でも笑顔でいたられた、あの時間があるからなのだ。

いまの若い連中には、そうした時間や体験がないというが、心を澄まし、自分の素直な声に耳を傾ければ、物や金を追いかけている自分、そのときの心の弱さで自ら導いている邪な欲望、自虐的な生活を振り返ることができる。

本当は、だれでもが、願っている。人にも、物にも、金にも左右されず、振り回されず、自分が自分らしくあるという生き方のできる毎日を。

贅沢ではできなくても、隣人や仲間を愛し、愛され、今日を生きられることに感謝できる生活…。

それも、眼に見えない何かを大切と思える心が育ててくれるのだ。