秀嶋賢人のはてなブログ

映画監督・NPO法人SocialNetProjectMOVE理事長

お彼岸の政権交代

今月23日は、彼岸の中日。墓参りの季節だ。

折りしも、19日から23日まで敬老の日を挟んで、5連休。来週16日には、新しい政権がスタートする。何かと落ち着かない雰囲気がある。政権交代で、補正予算の執行停止やそれを見越した予算執行の遅れが目立つ。街の空気もどこか、にぎやかさに欠けている。新しい時代が開ける前の静寂感。そんな空気感が、人々の生活に漂っている。

いまというときは、戦後64年という時間を振り返る年、振り返る初秋。オレにはそう思えて仕方がない。

敗戦から高度成長へと向かう復興期。その残像をオレは、幼少期に世間の残り香から知った。そして、高度成長期の少年たちの一人として、月光仮面や少年ジェッターを生き、家電製品が家に入ってくる感動を眺めた。貧しさから、便利さ、豊かさへ歩む道を戦争体験者である父母の姿を通してみつめてきた。

戦争は身近なものであり、貧しさやそれゆえの悲惨も、すぐそこにあった。物は貴重であり、人との出会いにおいても、恋愛においても、真剣さや本気さが求められた。人との出会い、男女の出会いを遊びとして片付けられるほどの緩さもなかったし、それが許されるほど、倫理は脆弱ではなかった。

すべてをきれい事に覆い隠すことも、テニスをしながら、大学の講義で身につけた、軽薄な正義が世間に通用するほど、甘い社会でもなかったのだ。

しかし、豊かさへの右肩上がりが続き、人々は多くのものを失っていった。それは、子ども、孫へと引き継がれ、日本人の矜持は、ドンキホーテ並みに人々から笑いの対象とされるようになっている。

そして、消費社会、成熟社会を経て、いま、この国に満ちている軽薄な精神文化を、オレは、深く憂いている。

この国は、豊かさと引き換えに、日本人の美学も精神性も、高い倫理観、相互扶助の精神を失っていった。人を思いやるという当たり前のことが、当たり前でなくなった社会。高齢者が、生活弱者が辛酸を嘗めさせられ、救済されえない社会。尊敬や倫理という生活の規範が失われ、他者を敬い、自己を尊ぶこともできない。そのとき、その場だけの、自分だけの平穏を願い、他者を思いやることはない。腐った小市民たちで街は溢れている。

そんなときに政権が代わり、時代が変ろうとしている。その変る先はどこへ行こうとするのか。人々は、どこへ行きたいのか。人々は、この国をどう考えるか。どうしたいのか。

戦争で亡くなった300万人の日本人のいのちに対して、オレたちは、いま、答えなくてはいけない。自分たちは、こんな国にするために死んだのではない。いまを生きられる人間として、そう反論されないためにだ。

年間30000人以上の自殺者に対して、オレたちは答えなくてはいけない。いのちを落させるほど、冷徹ないまの社会の矛盾を知るめにだ。その恥を知るためにだ。

だが、それは、難しいことでも、政治や哲学、生命倫理を知らなくてもできることだ。自分の身近な人の死を自分がどう受け止めているか、そのいのちに対して、いま何が語れるかを自問することだ。

久ぶりに夏の暑さが戻った今日、前にも紹介した赤坂のKさんに頼まれた、彼岸法要のイベントをボランティアで手伝う。あれこれ、二週間ほど前に打ち合わせし、その場で内容のアイディアを伝え、Kさんが、パワーポイントをつかって、映像資料もまとめてくれた。こちらは、アイディアやヒントを与え、ちょっとした書き物をした程度。

しかし、参列した人々は一応に感動してくれたようだった。イベント中、嗚咽がやむことはなかった。

人を立てるKさんは、やたら、演出のオレの名前を出していたが、実質的には、彼がなにからなにまでやったようなものなのだ。

人の死と向き合う。人が生きる上で、それは常に忘れてはならないことだと思う。普段できないなら、せめて、お盆や彼岸の時期に、振り返る心を持ってほしい。

それを通じて、いま世界で失われているいのちのことも、かつて戦争で理不尽に奪われたいのちのことも、考えられれるようになる。もっといえば、オレたち、日本人の先輩たちが、奪ってきたいのちのことも考えずにはいられなくなる。

死はオレたちに、多くのことを語る。その理不尽さも、冷徹さも、不条理も。そして、限りない無念の思いも。

それを引き受け、いまをどう生きるか、生きているのか。
涙と怒りと共に、振り返れ。